2019年05月22日

トマス・ムーアが語る魂の原理(その4)

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魂は、どのような方法論や手法を用いて、私たちを導くのだろう。
魂の原理を探るシリーズ第4回(最終回)では、魂が用いる様々な誘導方法について見ていこう。

以前、シベリアのシャーマンの言葉を紹介した。
自分の真の目的(精髄)を知り、それと一体化して生きることが人間の道である、という内容だ。
そのためにシャーマンは、ときに自然魔術、占星術、錬金術、夢、霊媒としての力などを用いて人を導く。
シャーマンほど本格的ではないにしろ、魂の観点を持ち込むなら、人間関係に神秘的な作用が働くことを認めざるを得ないだろう。

■魂は神秘的で広大無辺な想像力の領域に住んでいる

●魂は、運命が重大な役割をはたす広大な領域である。


「魂の栄養素は想像力である」
●魂を養生するために必要なのは、何を考えるにせよ、それに無限に豊かな想像力をもちこむことである。(中略)想像力は創造的であるばかりではなく、因習を打破する性質をもっているからだ。想像力は単純きわまりないイデオロギー、自己防衛的な原理、恐怖に怯えたかたくなさといったものを打ち砕き、人生を豊かにしてくれる。だからこそ、心を解放してくれる一方で、人を挑戦的な気持にさせ、怯えさせもするのだ。


理性や論理的思考の働きとは、点と点をつないで面を構成することにある。一方、直感とか想像力の働きは、面の外に新たな点を打つことにある。理性や論理的思考は、直感や想像力によって打たれた新たな点に抵抗するかもしれない。その点によって、面全体のかたちが大幅に変わってしまうこともあるからだ。しかし、面は常に変化する運命だ。

「魂は、知的分析よりも、詩的夢想を好む」
●もう一つ、魂の特殊な性質としてあげられるのは、謎めいたイメージで自らを表現するその方法である。魂は想像力の領域に住み、イメージと象徴からなる一種の詩的言語を通して、人生の方向や質に影響をおよぼす。

●魂の知性は知的な分析を通してではなく、じっくり時間をかけた熟慮を通して物事の本質にせまろうとする。その目標は曇りのない認識や論争の余地のない真理に達することではなく、深遠な洞察や不変の智恵にたどりつくことだと言ってよい。


魂は、必ずしも答えを出さない。少なくとも性急なかたちでは。魂は単純な結論を許さず、ときに答えを長引かせ、むしろさらなる探究や、いつ終わるとも知れない内省を強いる。
正確な解釈や分析よりも、人を夢想へと誘う。魂は、数学者であるよりも芸術家や詩人であることを望む。さらっとすっきり、歯切れのいい味よりも、濃厚でねばっこい、奥深い味を好む。

●複雑で難解な夢を理解する一つの方法は、それを魂の啓示とみなすことである。もちろん、魂は日常生活のなかでも随所に顔をのぞかせるが、夢のなかでは、さらに大胆に自らを現す。夢についての簡単な話しあいは、お互いの魂に特有のイメージやテーマをわかりあう助けになる。夢の話はまた、夫婦の会話を合理的な解釈や解決をもとめようとする傾向から遠ざけ、より詩的な内省スタイルへと転換させる。このような転換は重要なものだ。魂は理性よりも詩によって動かされるからである。


魂は基本的に、想像力、夢想、イメージ、象徴(シンボル)、詩的言語、神話、錬金術、魔術といった方法を用いる。
実は、これらはどれも夢が持つ機能、夢が用いる修辞学である。
夢が、人間の想像力、夢想、イメージの力であることを疑う人はいないだろう。
夢に登場する人物であろうが、生物であろうが、架空の生き物であろうが、あるいは場所や建物や自然現象であろうが、すべては何かを象徴するシンボルである。気になる夢を見て、その意味を知りたくて、いわゆる夢辞典の類を一度でも紐解いたことのある人なら、そのことをよくわかっているはずだ。
夢が持つ文法、修辞法、表現のパターンをよく見るなら、あるいは夢の構造に関するユングの叙述を読むなら、夢がいかに詩的表現手段を用い、世界各地に古くから伝承されている神話の作用と密接に結びついているかがわかるだろう。
まさに、あなたの魂の姿は、あなたの見る夢のなかに大胆に現われる。

●夢はわれわれ自身を啓発するために魂によって生み出される一つの芸術の形態である。


K子が見た夢では、K子と家族との関係性を表す「共依存」という心理学的概念など、たちどころに一蹴されてしまう。問題は、K子と家族の関係性ではなく、関係性に対するK子の捉え方なのだ、ということを夢は伝えている。
「あなたにとって家族が、相互依存的であり、ストレスや鬱の原因であり、自分の人生を後退させるものなら、家族から離れなさい」と心理学は言うが、しかし魂は知っている、人はいずれにしろ何かに愛着し、何かに反発するものであることを。だから夢は、そのやっかいで不条理で、およそ理性的とは思えない状況に留まれ、と言う。変えなければならないのは現実の状況ではなく、状況に対するあなたの対し方なのだ、というわけである。しかし、その理不尽さが、魔法かと思えるような劇的な変化をもたらすこともある。
人生に正解などない。あなたが下した判断を審議するのは、目に見える物差しではない。魂は、あなたの人生の始まりと終わりの両方を、一種の見取り図、地図、設計図としてもっているため、あなたの判断にYes、Noが言える。それは審議ではなく、軌道修正だ。なぜならゴールにたどりつくルートは無数にあるからだ。
K子が、夢の読み解きをきっかけにして、それまでなかなか言えなかった「No」が言えるようになったのは、自分の魂に触れたからである。自分の魂との接触は、周りの人間も触発する。

■魂はときに魔術や錬金術という手段を用いる
●すべての親しい人間関係はある程度の魔術を必要とする。というのも、魂が必要とするものをなし遂げるのは、理性や意志ではなく、魔術だからだ。


ここでトマス・ムーアが言っている「魔術」とは、必ずしも儀式的な秘術を用いて超自然的な力を発揮することを意味しない。そうではなく、魂の住処である内的次元に分け入る手段としての魔術だ。夢の読み解きがそのひとつであり、瞑想もそうだろう。トマス・ムーアはそれを「錬金術」にたとえる。錬金術は、合理的な精神が負の側面、影の側面ととらえるような要素に、不可能に思えることを可能にする手段を見いだす。
「魔術」という言葉には、「黒魔術」がそうであるように、歴史や伝統の正道からは外れた怪しげな秘儀というニュアンスがある。「錬金術」という言葉にも、正統な科学が手を出さない異端のイメージがついてまわる。いずれにしても、日の当たる場所ではなく、暗がりのイメージだ。
しかし、暗がりだからといって、あるいは非科学的だからといって、怪しい宗教だとか、闇の文化のように扱うとしたら、あまりに了見が狭すぎる。特に生身の人間同士の関係性に、どのようなすっきりした科学的方程式が成り立つだろう。
人間関係の奥座敷には、理性や科学や物理現象には還元できない神秘的で霊的な生き物が住んでいる。トマス・ムーアは、魂の仕事をこなす「小さな人々」(地の精、山の精、妖精、親指トムなど)に注目し、それは「ささいなふるまいやちょっとした言葉、日々の細やかなやりとり」のなかに宿り、そうしたものによって魂が作り上げられていくと語る。

あなたは恋人や伴侶の誕生日にプレゼントを用意し、レストランを予約し、食事をしながら、自分たちの将来の夢について楽しく語らうとする。ごく普通の微笑ましい光景だが、そこには特別な魔術の雰囲気はない。一方、あなたが相手をキャンプに連れ出し、自分が採った木の実や釣り上げた魚を焚火で焼いて食べさせ、その火を囲んで森に住む妖精の物語を語って聞かせるとしたら、それこそが何気ないけれども特別な魔法であり、相手との関係性を深める人生のスパイスになり得ないだろうか。

K子の場合、上昇志向の人生をいったん諦め、家族のもとに戻ったとき、一種の気分転換として、かつての母校を訪れたり、古いアルバムを紐解いたり、ということをした。それはもちろん現実逃避であり、過去への退行であるに違いないのだが、パチンコにのめり込んだわけでもなく、お酒に走ったわけでもない。
そのとき彼女が求めていたのは、目に映るものに宿る自分のカケラだったのだ。つまり彼女は、魂の住処である内的次元に分け入ることで、ともすると現実生活のなかで失いかけてしまう自分自身を取り戻そうとしていたのである。
さらに彼女は、結婚・出産・父親の病気・夫の失業と続く、人生のもっとも激しい動乱期に、夢の学びを求める。それは、明るみと暗がり、外部と内部、現実生活と魂の生活のバランスをとろうとする試みでもあったのだ。
そして彼女は、自分を見失っている夫を相手にしたときは、お互いが見た夢について話し合うという、焚火を囲む妖精語りのような、一見現実逃避的なファンタジーを仕掛けることによって、結果的に夫の葛藤をあぶり出し、ついでにその乗り越え方まで導き出したわけである。

このように、きわめて現実的な問題に向き合うとき、魂の原理にてらすなら、想像力、夢想、夢、詩的ファンタジー、魔術、錬金術といった、およそ非現実的な方法が、もっとも有効な手段となりうる。

■魂は死と再生のプロセスをもたらす
トマス・ムーアは、もうひとつ、錬金術のイメージには、死の影がつきまとっている点を指摘している。

●魂の思惟様式は知的な分析ではなく夢想なのだ。魂による治療のプロセスは感情が浮き沈みする日常生活の気分の流れの渦中で起こり、最終的な治療など存在しないという前提に立っている。魂にとって、死は永遠に身近にあるものなのである。

●われわれの明晰な認識やもろもろの期待、理知的な努力や手法、高潔な価値観や信念といったものはすべていったん死ななければならない。そのことを、ユングは錬金術の視点から、王様ないし太陽の殺害として描いている。魂の成長に手をかすには、明るい健全なビジョンを生み出す源である自我による操作を明け渡し、死と再生のプロセスに自らをゆだねなければならない。


何か根本的な治療や方向転換が必要になったときに、魂が施すプロセスは、大胆かつ容赦がない。
あなたは、自分が死ぬ夢を見たことがあるだろうか。
誰かに殺される、自殺する、病気や怪我で死ぬ、寿命で自然死する・・・何でもいい。
夢のなかで自分が死ぬことは、恐ろしい悪夢であるのに違いないのだが、それでも覚めた後、どこか清々しい感じが残っていたり、生まれ変わったような新鮮さや純粋さを覚えるようなことはなかっただろうか。

実は、夢のなかで自分の死を体験することの意味は、「新しく生まれ変わる」というところにある。文字通り、それまでの古い自分が死ぬのだ。それまで信じていた常識や固定観念や因習、誰かに刷り込まれた考えが完全に無効になり、場合によっては、まったく新しいものの考え方、とらえ方が芽生えることもある。夢のなかで死んだ数だけ、人は脱皮して成長する。
プラトンが語る魂の再生神話は、死で終わる人生のサイクルが再び始まる直前のプロセスを物語っているが、今生の人生もまた、死から新たに始まるプロセスの繰り返しなのだ。

夢においては、死と再生はほとんど同時に起きる。あなたはその瞬間、雷に打たれるのだ。覚めた後も、その感覚は消えない。電撃は、死と同時に覚醒ももたらす。そのとき、あなたは気づく、夢のなかの自己の死は、魂の要請でもあったことに。あなたの魂が本当は何を望んでいたかに、あなたは気づくのだ。

あのエゴの亀裂に落ち込んだ4人の人たちに共通する課題もこれだ。私は4人の墓碑銘を刻んだが、それは、生まれ変わる準備としての心理的な死を、この4人が経験していることを標すものである。もし、死んだ状態を、自分の通常の状態と考えるなら、この人たちの魂は、本当に死んだ(眠った)状態のままになるだろう。

厳しい言い方になるが、もしあなたが、魂、想像力、内的次元といったことにいっさいおかまいなしでいるなら、現実生活のなかで、思いもよらないトラブルだとか、事故や怪我や病気に見舞われないとも限らないのだ。あなたがそれらを、単なる偶然のアクシデントや災難ととらえるのも、あるいは魂からの手厳しい警告ととらえるのも自由だ。

■魂は自分独自のオリジナルの辞書をもっている
●それぞれの人間が独自の心理学的な辞書をもっているほうが好ましい。そのほうが、自己啓発のマニュアル本によって際限なく提供される考えからキーワードを借用するよりはるかに有効だろう。


私もついでに、こう言っておこう。
自己啓発書を10冊読むくらいなら、あなたが見たたったひとつの夢があなたに訴えようとしているメッセージの意味を、じっくり時間をかけて読み解くことの方をお勧めする。なぜならそれは、いかなる本にも書かれていない、あなた独自の人生の襞であり、解読すべき暗号であり、あなたにとって生涯を通じての心の宝物になりうるからだ。
人生の半分は謎であり、もう半分は謎解きである。

私が授かった夢の秘儀の最終的な教えは、まさに自分独自の心理学的辞書(夢のシンボル辞典)を編纂することだった。つまり、夢に登場するひとつひとつのシンボルが、あなたにとってどのような意味を表すかを集大成したオリジナルの辞書ということだ。
通常の辞書でも、時代の流れに合わせて、収録される言葉の数や意味が更新されていくように、夢の辞書も、あなたの人生の進み具合に合わせて、どんどん更新されていくものである。

私には、自分の夢に頻繁に登場するにもかかわらず、いまだに完全には解読できていない特別なシンボルがある。それをいつ読み解けるかわからないが、それは人生のひとつの課題であると同時に、ひそやかで私的(詩的)な楽しみでもある。

ついでに言及すると、あなたの夢に頻繁に登場するシンボルは、その意味を必死に追い求めているうちは読み解けなくても、それこそあなたが魂の要請に従って、新しいことにチャレンジし、人生に大きな変化をもたらしたとき、ふと気がつくと、最近夢にそのシンボルが登場しなくなったことで、はじめてその意味に思い当たる、という場合さえあるのだ。
夢は、あなたの人生の取り組み課題を、優先度の高い順、難易度の低い順に、象徴というかたちで提示してくる。つまり、夢に現れた人生の課題は、すでにゴーサインが出された、すぐに取り組むべき最優先事項なのだ。それが克服できたら、夢はさっそく次の課題を提示してくる。
逆に言えば、夢(魂)の忠告に従わず、あなたが相変わらず人生の方向転換をせずにいると、そのシンボルはさらに頻繁にあなたの夢に(特に悪夢というかたちで)登場して、あなたを悩ませることになるだろう。
夢は、実にあり難い人生の指導者、アドバイザー、指南役なのだ。

さあ、覚悟を決めて、面の外に新たな点を打ち続けようではないか。

■まとめ:魂の原理
〇魂は、物事のもうひとつ別の側面を見せてくれる
〇魂は、善悪の彼岸に住んでいる
〇魂は、弁証法的に働く
〇魂は、明るみよりも暗がりへと人を誘う
〇魂は、運命が重大な役割をはたす広大な領域である
〇魂は、夢のなかに大胆に姿を現す
〇魂は、上へ向かうよりも下へ向かう
〇魂は、ピラミッドの頂点ではなく、体験の谷間に住んでいる
〇魂は、未来よりも過去へと向かう
〇魂は、愛着と反発の両方を抱かせる
〇魂は、直線的ではなく、段階的に、あるいは反復的に、あるいは不規則に進む
〇魂は、人生に緊張感を強いる
〇魂には、人格的階層構造がある
〇魂は、多面的である
〇魂の道は、否定によって開かれることもある
〇魂の栄養素は想像力である
〇魂は、知的分析よりも、詩的夢想を好む
〇魂は、ときに魔術や錬金術という手段を用いる
〇魂は、死と再生のプロセスをもたらす
〇魂は、自分独自のオリジナルの辞書をもっている

最後に、トマス・ムーアの引用で終わろう。

●自己愛は本質的に魂を愛そうとしない徴候とみなすことができる。ひょっとしたら、愛と喪失という陰と陽を好まないゆえに、われわれは自己愛にとらわれ、不平をこぼすのかもしれない。けれども、魂がわれわれに要求するのは、矛盾を包容し、矛盾のなかに潜む智恵を十分に評価できる大きさと深さを備えた人生のビジョンなのだ。

●あらゆる人間関係は、親子や夫婦の親密な関係から、仕事の同僚や商売相手、さらには、毎日、仕事に行くときに乗るバスの運転手とのちょっとした関係にいたるまで、魂の関わりだと言ってよい。この関わりによってもたらされる贈り物は、親しさだけではない。魂そのものを開示し、その神秘にもっと深く入り込むよう誘うのだ。顕在化した性質と秘め隠された性質をあわせもち、錬金術的な変容をとげる神秘的な魂。その魂との婚約。人生の真髄を言い表すのに、その言葉ほど適切な表現がほかにあるだろうか? もし一粒の砂に全世界を見ることができるなら、運命が交わり、心が溶けあう人生の小さな点に、魂そのものを発見することもできるはずだ。


posted by AK at 11:33| Comment(0) | 論考

2019年05月21日

トマス・ムーアが語る魂の原理(その3)

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魂はあえて、予測不能で、込み入った、一筋縄ではいかない困難な道へと、私たちを送り出そうとする。それには深い理由がある。

■魂は愛着と反発の両方を抱かせる

●魂は何にでも愛着を感じたがるが、愛着に反発しようとする衝動も内にひめている。深い愛着を感じると、魂のなかの何かがかならずそれに反発して逃走するのだ。(中略)われわれの最終目標は、愛着とそれへの抵抗をともに包含する道を見いだすことにある。そのためには、相反するそれらの衝動を和解させなければならない。和解させる唯一の方法は、それぞれの衝動の性格を深くきわめることだろう。魂にまつわる問題にすべて言えることだが、魂の神秘にたどりつきたければ、その衝動を敬うのが一番てっとりばやいのだ。


ここで、エゴの亀裂に落ち込む4人の例の一人、Dさんのケースを思い出していただきたい。

Dさんは、自分に依頼された仕事にやる気が出ない原因を、依頼主であるEさんの世間的な評判に帰している。自分はわけのわからないEさんが嫌いだと。では、DさんがEさんに反発を感じる本当の理由とは何だろう。Eさんの世間的評価は真っ二つに分かれているが、おそらくDさんはEさんの本当の姿を知らないし、知ろうともしていない。もしEさんに不審な点があるなら、Dさんは、仕事を受けるか受けないかの判断のためにも、Eさんのことをもっと直接知る必要がある。しかしDさんはその努力を怠っている。

おそらくDさんは、Eさんのなかに自分の負の側面を見いだしているのだろう。

Dさんの生き惑い方を見ると、まだ自分の魂のあり方を見いだしてはいないのだろう。だからこそ、自分自身をもっとよく知りたい、という初歩的な自己愛的願望を潜在的に抱いているが、そうした自己への愛着は、同時に自分の負の側面への激しい拒否感や反発をももたらす。つまり、自分を知りたいという気持ちと同じ強さで、自分を知りたくない(認めたくない)という気持ちもある、ということだ。

Dさんの未熟な心理は、自分が自分の負の側面に反発を抱いているとは認めたくない。そこで身近にいる不審な人物であるEさんに自分の負の側面を投影する。つまり、Dさんの心は、自分は自分に反発しているのではなく、Eさんに反発しているのだ、と言い訳するのだ。

Dさんが現実と自分とを和解させるには、自分を好きだと思う気持ちと同じだけ自分を嫌いだと思う気持ちがあることを、自分にしっかり認めてやる必要がある。Eさんが自分の負の部分を認められれば、他人の負の部分も認められるはずだ。そうなれば、Eさんを嫌う理由はなくなる。

●魂は逆説と矛盾に満ちた複雑な心の領域である。
われわれのなかには、愛着をもとめる気持と同じぐらい強く孤独や自由、分離をもとめる何かが存在している。


K子の例では、まず真っ先に挙げられるのは、彼女の家族に対する愛着と反発だろう。K子は、もちろん子供の頃は、家族に対して強い愛着や依存を感じていたはずだが、思春期を迎えた頃、世間一般でいう自立心が芽生える。しかし、いったん家を出た彼女は、再び家族のもとへ舞い戻る。その一方、内面では、家族関係の煩わしさや、自分に押しつけられる重荷に反発心を抱く。この時点でまだ彼女は、この愛着と反発に折り合いをつけられてはいない。

そして、もうひとつ重要な愛着と反発がある。

K子は、ある人物と出会い、自分と家族の関係は「共依存」であると指摘される。いわばそれは「愛着」というより、執着や嗜癖(心理学的には「アディクション」と呼ばれる概念)である、という指摘だ。もちろんその指摘は、K子の心理のある一面を確実に言いあててはいる。対象に対して、愛着と反発の両方を抱いていることこそが、アディクションの証拠だと。だからこそK子はその分析を正しいと思い、その分析の言葉が彼女の心でずっと鳴り響いている。つまり、ここで彼女はその心理学的分析そのものに執着しているのだ。ところがその反面、せわしなく鳴り響く様々な心の声を、どこかで冷静に聞いているもうひとりの自分の存在も感じている。これこそが魂の働きなのだが、もちろんまだこの時点で彼女はそのことを知らない。

揺れ動く二つの概念の弁証法的統合(和解)は、15年後に訪れる。自分の人生の進みゆき、家族との関係性が落ち着いた頃、つまり現実の状況も心の中も、ともに「木蔭に憩う」状態になったとき、家族への愛着と反発、あるいは特定の心理学的概念への執着と魂の働きとの対立が統合されるような新しいオリジナルの視点を、彼女は獲得するのだ。もはや彼女が世界を見る目は、まったく別のものになっている。それは世間一般の見方とは、質的に異なる。


■魂は込み入った成長の道へと人を追い込む

魂は、完璧さ、まっすぐな道のりを嫌う。未熟で欠点だらけに思える発想や判断の裏にある価値、完璧に見えることの裏にある新たな可能性、脇道にそれたり、行ったり来たりしているように見える成り行きのなかに隠れている意味に気づいている。
魂は、直線的ではなく、段階的に、あるいは反復的に、あるいは不規則に進みながら、込み入った、より深みのある成長の道へと、私たちを追い込んでいく。その道は、常に激しい葛藤を抱え込んでいるという緊張感を伴うものである。

●われわれが性急に洞察や変容を追いもとめるのに比べ、魂の成長は、生き物が成長するときのようにゆっくりしている。R・W・エマソンは、魂は直線的には進まない、と語った。虫が卵から幼虫をへて成虫になるように、「段階的に」進んでいくのだ。(中略)過去の出来事には、まだ触れられていない豊かな鉱脈が眠っているかもしれないのだ。いずれにせよ、魂は執拗な記憶や反復的な夢を通して、昨日の心の傷にわれわれをつなぎとめておく働きをする。

●魂は愛着し、巻きこまれ、にっちもさっちもいかなくなることさえ望む。というのも、魂が栄養を引き出し、より深みのある成長をとげるのは、そのような親密さを通してだからだ。


「魂は、人生に緊張感を強いる」

トマス・ムーアが言うには、魂がもっとも活発に活動するのは、二つの傾向が牽引しあう緊張感のなかにどっぷりつかって生きているときだそうだ。

K子の人生は、しがらみをかなぐり捨ててピラミッドの上を目指す直線的なコースを選ばず、家族の人間関係のなかに飛び込むという、ある意味、よりやっかいで困難な道を選ぶところからスタートする。

単なる出世コースの進み方なら、成功の指南書がいくらでも書店に並んでいるかもしれない。しかし、こと人間関係となると、その辺にころがっている指南書は大して役には立たないだろう。

やはり人の心を相手にするとなると、一筋縄ではいかない。複雑で、理不尽で、予測不能だ。少しずつ手探りで前へ進むしかない。

実際にK子の場合も、家から出ては戻るを繰り返すような反復的な進み方をしている。

それは人を落ち着かなくさせ、確信をもたせず、不安にさせる。人間関係には、どんなに親しい間柄でも、いや、なまじ親しいからこそ、緊張感を強いるところがある。今日うまくいったからといって、明日もそうだとは限らない。実際、K子の周りでは、平穏な暮らしを搔き乱すような出来事が次から次へと起こってくる。魂は、彼女があえてそのような混乱にしがみつくよう仕向ける。「そんな面倒なことに巻き込まれるのはやめときな。それより、もっと自分の望む人生にまっすぐ向かった方がいい」と世間がアドバイスするような道に、魂はあえてとどまらせようとするのだ。それは、より深みのある成長を目指すためなのだ。

先に、ある心理学的調査を紹介した。

「富、名声、美貌」という外発的な動因と、「良好な人間関係、社会貢献、自己成長」という内発的な動因では、外発的な動因に重きを置く人ほど精神的健康度が低く、内発的な動因に重きを置く人ほど精神的な健康度が高い、という調査結果だ。

しかし、これら6つの欲求のうちの十分な部分が満たされたからといって、別のものに対する欲求が収まるとは限らない。人生はそれほど単純ではない。ひとつが満たされれば、次が出てくる、というのが通常だろう。特に外発的動因と内発的動因は、常に緊張関係にある。両極の間で、人は常に揺れ動いている。しかし、これらは緊張を強いると同時に、むしろだからこそ、どちらも私たちの人生に活力をあたえてくれたりもする。欲求はいつもダイナミックなのだ。そのダイナミズムはプラスにもマイナスにも働く。ある欲求をエスカレートさせた結果、精神的な健康を損ねたとしても、それで人生が失敗したわけではない。そこから学ぶことはいろいろあるだろう。その学びこそが、魂のたくらみであるともいえる。

人は心理学の理論通りに気が狂うわけでも、幸せになるわけでもない。単純な理論や分析や洞察では割り切れない感覚こそが魂の働きである、とトマス・ムーアは言うわけだ。


K子は、家族との関係性にどっぷりつかることを選んではいるが、社会的なキャリアをまったく諦めたわけではない。自己成長やキャリアアップを目指す上昇志向のエネルギーは、いわば潜在化していたと言えるだろう。やがてその潜在化したエネルギーは、夢の学びを通して自己成長したいという欲求を抱かせるに至るし、夫との関係性の作り方にも表れる。そして最後には、自分の人生経験を本にまとめたいという野心にまで発展する。彼女は、結果的に、自己実現したいという欲求を何十年にもわたって意識下で息づかせていたことになる。それを理性や心理学理論で説明しようとしても無理がある。やはり、彼女の魂の目的や意図にかかわる部分だと受け取った方がしっくりくるだろう。

一般的な心理学理論なら、家族関係のなかでもまれ、苦労した経験が、彼女を作家の道へと進ませた、と言うだろう。しかし魂理論ならこう言うだろう、彼女が生まれながらにもっていた、何かしら作家的な気質が、あえて家族関係のなかでもまれ、深く人間を理解するまでに成長することを望んだのだと。

彼女が「鬱」のイメージを抱く裏にも、魂の意図が垣間見える。マニュアル的な心理学的分析なら、度重なる人生の変化がもたらす精神的ストレスに「鬱」的気分の原因を見いだすところだろうが、魂の原理はまったく違う説明をする。生活の変化に彼女が浮足立たないように、気分を下方へと引き下げ、安定させるためであり、人間関係の渦の中で奮闘することは、自己成長以上の魂の隠された目的があることをほのめかすためである、という説明だ。

魂は、あなたが成長した、そのさらに先を見ている。


●たまに、自分の適性が気になるという形で、問題が浮かびあがってくることもある。私は結婚すべき人間なのだろうか、それとも、独身で生きなければならないのだろうか? 大企業で仕事をすべきなのだろうか、それとも自営業で生きるべきなのだろうか? どこかの思想の流派に所属すべきなのだろうか、それとも独自の道を見つけるべきなのだろうか?
こうした疑問に対する最良の答えは、相反する疑問を両方とも頭と心で受けとめ、緊張のなかで生きることだ。そうした緊張のなかからかけがえのない解決策が、すなわち愛着すると同時に離れる方法が生まれてくるかもしれない。


この緊張感は、K子よりも、彼女の夫の方に端的に現われているかもしれない。

会社の都合で、心ならずも新たな就活を余儀なくされた夫は、ある意味そこで初めて自分の職業的適性に関する疑問と葛藤に悩む。つまり、仕事を単なる生活費稼ぎとは割り切れない自分を見いだしているわけだ。経済的安定と自己実現としての仕事の両立を目指そうとすることは、対立する概念に統合をもたらさなければならないという困難さと、そこからくる緊張感を強いる。

夫がその緊張感の壁を見事突破できたのは、夢の働きだった。つまり、物理的な努力で能力アップすることで壁を越えたわけではなく、純粋に心の持ちよう、常識的な固定観念や偏見から脱皮するだけでよかった、ということだ。ずいぶんと不確かな、まわりくどいコースをたどっているように思えるが、実はその方がより確実にまっすぐ結論に近づく道だったりする。一度脱皮を経験した人は、別の壁にぶちあたっても、同じように脱皮できる。魂はそのことも知っているのだ。

●確実な道をもとめるなら、暗闇を歩くのが一番だ。



■魂には人格的階層構造がある

●魂はたくさんの下位の人格からなっている。ユングはそれらを独自の意識と意志をもつ複合観念としてとらえ、魂の「小人」と呼んだ。夢に登場する人物をそのような魂の人格の現れとみなすなら、かれらもまたお互いのつきあいを楽しんでいると言ってよいだろう。私の魂の母親は魂の子供たちと関係をもち、魂の泥棒は私から物を盗み、魂の警官に追いかけられる。
もし、自分が多くの人格から作られていることに気づかなければ、あるいは、われわれが自我と呼ぶものが私という存在のすべてであると考えるなら、私の人生は、魂の小人たちが無意識に関係しあう舞台になってしまうだろう。私は自分自身の豊かな内面生活にも、自分が関係している人々の複雑な内面生活にも気づかないだろう。その結果、人間関係のとらえ方が薄っぺらとなり、自己愛的な傾向が強まるだろう。注意が魂ではなく、狭い自己の概念にむけられるからだ。


夢の学びにおいて、まず真っ先に指摘されるのは、夢に登場する人物であろうが、動物であろうが、場所や出来事や現象であろうが、すべては自分の一部である、ということだ。自分から派生した、そういう諸々の自分が象徴的なキャラクターとなった「小人」たちが、夢のなかでどんなに好き勝手なドラマを演じようが、舞台監督はあくまで自分自身だ。

これは、私自身経験したことだが、そのような大前提に立ち、夢について学べば学ぶほど、自分の内部にどれほど豊かなイメージやシンボルやキャラクターたちが住んでいて、それらが毎日千変万化のドラマを演じているか、ということを知るのだ。このように、夢というかたちで、いったん外部に出されたそれらのイメージやシンボルやキャラクターを、再び自分の内部に取り込む(夢を読み解く)作業によって、あなたの心のキャパシティは広がり、逆にエゴの居場所は相対化される。自我などというものは、自分のほんの一部にすぎないことを思い知らされるのだ。そう、まさに大樹の枝葉末節の部分にすぎないと。

まず「魂」という太い幹が意識されていることが大前提で、次にその魂の反映である「先天的自己像」が意識され、そこから枝分かれしたものとして「後天的自己像」があり、その先っぽの葉っぱの部分として「エゴ」がくっついている、ぐらいの認識がちょうどいい。

ここでもし、自分のなかに住むいちいちの「小人」たちに自己同一化していたら、つまり、夢に登場する不気味な存在や、悪さをするキャラクターなどにいちいち強く影響され、それこそが自分の人格のすべてである(葉っぱこそが自分である)とみなしたら、あなたは自己コントロールを失うかもしれない。

統合失調症だとか、解離性多重人格障害だとかという症状は、まさにこういう状態を指す。たとえば解離性多重人格障害の場合、自分が何かの都合(過去のトラウマから逃れる、など)で作り出した架空の人格が現れると、本来の人格は無意識下に抑圧されてしまうという現象が起きる。文字通り、自分ではない人格に乗っ取られてしまうのだ。

K子がそうであったように、どれだけ異なる複数の声が自分の内面でせわしなく鳴り響いていたとしても、それらを冷静に聞いているもう一人の(本来の)自分というものがしっかり意識されている状態こそが、人間の本来あるべき姿である。


■魂は多面的である

●魂に精通している人間は、魂がきわめて複雑なもので、合理的思考の規準や、合理的思考がもたらす予測にしたがわないことを知っている。心理的に目覚めている人間は、魂の多面性を知っているゆえに、親しい友人、家族、伴侶などがどのような体験をし、何を表現したがっているかを読みとることができる。かれらは物事がかならずしも見た目通りではないことを知っているのだ。


●魂はもともと多神論的な構造をもっている。


プラトンが語る魂の再生神話を思い出していただきたい。

人間の魂は、肉体に宿ってこの世に生まれる前から、すでに充分複雑であり多面的である。

魂は、天国で過ごしたにしろ、地獄で過ごしたにしろ、すでに多くのことを経験し、さらに多くの魂たちと交流して情報交換し、何かに憧れ、何かに幻滅し、かなり明確な優先順位をつけて現在の人生を選んでいる。
その経験値に基づく選択基準が、単純なはずはない。


魂に精通している人、心理的に目覚めている人、魂がもともと多面的で多神論的であることを知っている人とは、どのような人だろう。

その人はまず、人生は「過去―現在―未来」という具合に一定方向に進むようなものではないことを知っている。もしかしたら、人生の結論(未来)を先に見て、そこから逆算するように「今」を選ぶかもしれない。
人生はもっとジグザグに、もっと反復的に、あるいは段階的に(優先順位をつけて)進むものであることを知っている。
(※プラトンが語る魂の再生神話では、過去も未来も、現在の内側にあり、過去は現在と未来の両方に加担しているのではなかったか。)

直線的なコースや、きっかりした時計通りの動きや、性急さではなく、ゆったりと余裕のある、じっくり熟していく時間や歩みこそが、魂の好む道であることを知っている。だからこそ、心のなかに常に「木蔭」を用意しているだろう。
(※たとえば、今このように書いている私にとっては、トマス・ムーアこそが木蔭である)

どんなに結論を急いだところで、そう簡単に最終的な答えが出るわけではなく、もっと理不尽で、不合理で、矛盾に満ち、無作為で、人知を超える神秘的な方法こそが、魂の原理であることを知っている。

魂の意図は、目に見える成長や、具体的な改革や、目標の実現にあるのではなく、ただ理解され、尊重され、ありのままに容認される、という点にあることを知っている。魂は、無視され、軽視されることをいちばん嫌う。

K子はまさに、数十年の困難な道によって、自分の魂にも他人の魂にも精通するようになった。だからこそ本を書けたのだし、彼女の尽きざる想像力が二冊目の本の執筆に即座に向かわせたのである。


■魂の道は否定によって開かれることもある

魂に精通している人は、人を見かけで判断しない。地位や名誉でも判断しない。もちろんお金持ちか貧乏かでも判断しない。つまりその人の外発的な自己像にはほとんど興味がない。

こういう人の他人に対する興味は、純粋に内面に向いている。自分の魂のあり方をよく知っているからこそ、他人を見る場合にも、その人の魂のあり方がいちばんの関心事なのだ。言い換えれば、目の前にいる相手がどのような相反する側面を持っていて、それをどう統合するかに興味があるのだ。
次の引用に続く例を見ていただきたい。

●魂へと通じる道は、肯定することによってのみ、開かれるとは限らない。否定することによってしか開かれないこともある。自分がさまざまな手だてを尽くして、人生の辛辣さから身を守ろうとしていることに気づくときだ。そのようなとき、自分がもっとも抵抗を覚える状況のなかで、痛みや脅威をもたらすものが何かを探究し、どのようにしてそのつらい状況から逃れようとしているかを探ってみればよい。


自分にとって激しい抵抗感を覚え、否定的で辛辣で、思わず自己防衛的になってしまったり、できれば避けて通りたいと思うような状況に出くわしたときに、自分の魂が見えることもある。

私が目の当たりにした4人の人たちの運命、亀裂に落ち込んだ人たちのケーススタディのうち、Cさんの例を思い出していただきたい。

Cさんは、自分の特殊な才能を活かして自己実現したいと思っている。そこへ自分の才能を高く評価してくれる人が現れ、ともにプロジェクトをやることになった。しかしCさんは、自分の自己実現に協力してくれるプロジェクト・リーダーが提案する発想のいちいちに激しい違和感・抵抗感を覚えた。しかし、Cさんのその感覚は、プロジェクトの他のメンバーやプロジェクトの成果を評価する外部の人たちも一様に抱いているとは限らなかった。つまり、その違和感・抵抗感は、Cさん固有のものであり、彼が自分の魂を見いだす貴重なチャンスでもあったのだ。

おそらくリーダーはそのことに気づいていた。だからこそ、その違和感から目を背けないようにCさんを促す。ところが、Cさんは逆に、それを見つめるのでなく、その提案自体を自分にとって受け容れやすいものに置き換えようとした。ご都合主義のエゴが、自分の魂の真の姿を覆い隠してしまったのだ。つまりCさんは、自分が抱く違和感・抵抗感そのものに完全に自己同一化してしまっている。

私たちは、何か避けて通りたい事態が起きたときのこのCさんの対処パターンそのものに注目する必要がある。それは、Cさんのエゴの発露パターンかもしれないし、彼の魂の隠された傾向かもしれないし、むしろ自分の魂の傾向が、自分に対しても他人に対しても露わになってしまうことへの抵抗感かもしれないのだ。まるで、異端審問を逃れようとする異端者のように。


参考引用 「ソウルメイト、愛と親しさの鍵」トマス・ムーア (著), 菅 靖彦 (翻訳)平凡社


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2019年05月20日

トマス・ムーアが語る魂の原理(その2)

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■ケーススタディ:対立する外部と内部

魂の第一原理は「弁証法」であると言った。

魂の働きによって、内部と外部の対立が弁証法的に統合される、ということだ。

ケーススタディであるK子の人生を、この第一原理にてらして、まず概観しておこう。

K子のどのような内部と外部が対立していたのだろう。


〇子供の頃から、夢はK子にとって強烈な内的リアリティをもたらすものだったが、外部の人たちにとっては非現実的な絵空事だった。

〇思春期になって自立心が芽生えた頃、K子の内発的自己像への欲求(人に尊敬される人物になりたい)が漠然と芽生えるが、外発的自己像(家柄、才能、美貌)はその足を引っ張る。

〇大学時代、外部の事情は祖母の介護のために自由で解放的な独り暮らしを犠牲にし、内部は過去へと退行する。

〇その後の人生の外部は、結婚・出産・父親の介護・夫の失業という具合に目まぐるしく変化する一方、内部は「鬱」のイメージでどんよりと停滞する。

〇その頃、外部では、ある人物から「共依存」を指摘されるが、それでも内面的には冷静に心の声を聞いている「もう一人の自分」がいることを自覚している。

〇外部の状況は差し迫っているが、K子の内面は子供の頃からの夢への関心へと向かう。

〇ここで劇的な変化が起きる。外部の状況はいっさい変える必要はない。内部をせわしない明るみから、穏やかな木蔭に変える。すると、外部の状況もしだいに変化する。

〇これはK子の葛藤ではないが、K子の夫は最初、妻が夢に興味をもつことに反発心を抱くが、自分が気になる夢を見ると、それを妻に打ち明ける。そして、その夢の意味を読み解いたとき、自分の内面の葛藤に気づくとともに、それを乗り越える新しい発想を手にし、それに従うことで理想的な職に巡り合う。

〇K子は、本を書くことを決心することで、外部では骨の折れる作業を背負い込むことになるが、内面ではものの考え方に大きな変換がもたらされる。

〇結局、K子の人生は、外面的には自分のキャリアイメージ通りのことは何も起きていない。しかし、内部では作家としての自分の魂を発見する。


K子の人生をこのように概観すると、外部と内部の対立を、数十年の長い年月をかけてゆっくり統合していったプロセスがわかるはずだ。その統合により、K子は自分の魂の根本的なあり方を見いだしたのである。

さらに、トマス・ムーアの言葉を引用しつつ、ひとつひとつ細部を見ていこう。


■魂は明るみよりも暗がりへと人を誘う

●魂は、運命が重大な役割をはたす広大な領域である。

●魂はおぼろげにしか意識されない独特の原理をもっている。もし関係のなかに魂を見たければ、意識的な目的や期待を超えたところに目を向けなければならない。

●魂は往々にして、もっとも暗いすみっこやわれわれの避けたがる場所、われわれを幻滅させる問題そのもののなかに隠れている。したがって、生活のなかで魂を探したければ、大胆にならなければならない。


魂は、明るみよりも暗がり、ポジティブさよりもネガティブさの方に、私たちの注意を向けさせる。
これは、私も小説のなかで引用したジョークなのだが、トマス・ムーアも同じ意味のジョークを紹介している。

●多くの宗教的伝統や詩のなかで語られている物語にこんなものがある。夜、一人の男が、街灯の下の地面にうずくまって探し物をしていた。通りがかった人物が彼に尋ねた。「何かをなくしたんですか?」「ええ、鍵を」と彼は言った。「ここでなくしたんですか?」「いや、あっちなんですが、ここに明かりが灯っているもんですから」と彼は答えた。


このジョークに笑えているうちはいいのだが、あなたの実人生で、同じ意味のことが起きてはいないだろうか。

たとえばあなたは、手狭になったアパートを引っ越して、広い一軒家に住みたいと思っている。居住エリアは、なるべく今の場所の近くにしたい。しかし今の家賃以上の金額は払えない。当然、今の場所の近くでそんな物件を探そうとしても、見つかるはずはない。つまり、あなたはあるはずもない場所で、探し物をしているのだ。先のジョークの男を笑うことはできない。

こういうときにこそ、あなたの魂の目的が問われる。あなたは本当は何を求めているのだろう。あなたは、まさに心を「木蔭」に憩わせ、自分の魂の声に耳を傾けてみる必要がある。あなたが本当に手に入れたいのは、ただ単に広い一軒家だろうか、便利で贅沢な都会の暮らしだろうか、それとも誰にも煩わされない穏やかな暮らしだろうか。

おそらくあなたは無意識のなかではわかっている。本当に求めているのは、人里離れた「ポツンと一軒家」なのだ。しかし、現実の状況(明るい場所)がその選択を許さない。「そうはいっても、今の仕事を辞めるのか?」「便利で刺激的な都会の暮らしを捨てるのか?」「そもそも、そんな山奥に引っ越して、いったい何をしたいのか?」

トマス・ムーアは言う。

●確実な道をもとめるなら、暗闇を歩くのが一番だ。



■魂は夢のなかに大胆に姿を現す

●もちろん、魂は日常生活のなかでも随所に顔をのぞかせるが、夢のなかでは、さらに大胆に自らを現す。


あなたはもちろん、現実の人生航路においては、明るい光に照らされたまっすぐな道を歩んでいい。もっと具体的に言えば、駅から自宅に帰るのに、街路灯が灯ったいちばん明るい道順を通るべきである。何もわざわざ見通しの悪い暗い道を通る必要はない。

ところが、いざ魂の道となると、あえて自分の内面にあるもっとも暗いすみっこ、できれば避けて通りたい部分、あまり思い出したくないような気の滅入る問題に、大胆に光をあてる必要がある。

ここで、あえて大胆になることの大切さをトマス・ムーアが訴えているのには理由がある。

自分の内面の暗がりに光をあてることは恐ろしいことだと、私たちは思いがちだ。たとえば、無意識の暗いスクリーンに映し出される「夢」という映画は、それが恐怖映画であればあるほど、見なかったことにしたい、早く忘れたい、という対象であるに違いない。しかし、いざ夢の読み解き作業をやってみると、実は非常に知的興奮に満ちた、豊かで有意義な作業であり、自分の心のキャパシティが劇的に広がることであり、まさに今まで否定的に思ってきた事柄に肯定的な意味を見いだす、いわば「錬金術」的な作業である、ということなのだ。

もちろんこれは夢の読み解きに限ったことではない。自分の無意識を覗くことは、明るい意識の領域では決して見つけることのできない心の宝物を発掘する作業でもあるのだ。そして、この発掘作業をするには、まずあなた自身が無意識の暗がりに、静かに憩っている必要がある。

私が師について夢の読み解きの修行をしていたとき、毎回のレッスンの最初に、まずは軽い瞑想やイメージワークで、自分の無意識と向き合う準備をしたものだ。

無意識の井戸に飛び込むときには、思い切り大胆になる必要があるが、いざ飛び込んだら、じたばたしてはいけない。

K子の場合、最初の深い関心事は夢だった。夢こそまさに、普通の現実を生きる人にとっては、自分の内面にあるもっとも暗いすみっこ、できれば避けて通りたい部分のはずだ。K子は現実の人生が込み入ってくればくるほど、夢への関心を強めていく。それは、K子にとって、ある種の「自己探究」でもある。しかし周りからは、随分な現実逃避のように見えるはずだ。それでもK子は、あえてそこへ大胆に切り込んでいく。その結果、劇的な発想の転換を経験する。現実の状況(汗ばむような日のあたる場所)を変えるのではなく、現実の状況への取り組み姿勢を変える(木蔭に憩うイメージをもつ)、ということ。それによって、まず現実のK子に、具体的な変化が現れる。それまで言えなかった「No」が言えるようになるのだ。これは、K子が依存体質から自立(自律)体質に変わった証しだ。それに引きずられて、現実の状況も少しずつ変わっていく。周りの人たちにも自立心が芽生え始めるのだ。ちょっとした心の「錬金術」が起きたのだ。これこそ「魂のはからい」である。


■魂は上へ向かうよりも下へ向かう

●伝統は何世紀も前から、われわれのなかに、二つの引力が働いていることを教えてきた。そのことを知るのは有益だろう。一つは超越、大志、成功、進歩、知的な明晰さ、宇宙意識といったものの方へ引っ張りあげる力、そしてもう一つは個人的な土着の生活の方へと引きさげる力。前者は明らかに舞いあがろうとする力である。それにひきかえ、後者は平凡であることを願い、黙々とささやかな満足をもとめる。魂はこうした豊かな可能性をはらむ平凡さのなかに住んでいる。自由に流れるような道に沿って、思い描いた目標にむかう上昇運動とは異なり、魂はこみいった方法でしっかりと人生にしがみついている。


トマス・ムーアは、二つの異なる人生修行の道があることを指摘している。

ひとつは「人間の潜在的な可能性をきわめ尽くそうとする霊的な修行」であり、もうひとつは「こんがらがった人生の蜜と栄養を追究する魂の修行」である。

前者は「単純さ、秩序、意味、自由をもとめる上向きの渇望」であり、後者は「複雑さ、変化、憂鬱、地に足をつける感覚、愛着をもとめる下向きの欲求」であると、トマス・ムーアは述べている。

簡単に言うと、前者は修行僧や求道者の心的傾向であり、後者は俗人の心的傾向だろう。しかし、私たちの心の中には修行僧と俗人の両方が住んでいる。私の中に、ケン・ウィルバーを求める気持と、ジェイムズ・ヒルマンやトマス・ムーアを求める気持との両方が同居しているのも、そうした魂の両義性を表すものだろう。ただし、ケン・ウィルバーが上昇志向で、ジェイムズ・ヒルマンやトマス・ムーアが下降志向であるとは言っていない。人間はそれほど単純ではない。これらの人々は、上向きと下向きの両方のベクトルを持っている、と私は信じている。

「魂は、ピラミッドの頂点ではなく、体験の谷間に住んでいる」

●憂鬱(メランコリー)の感情はときに愛着をともなっている。(中略)憂鬱が生み出す下方へ引き戻される感覚は、体験の谷間に住む魂にふさわしいものでもある。憂鬱とは舞いあがった感情が下降することである。だからこそ、不快な感じがし、病気ではないかとすら勘ぐりたくなるのだ。しかし、魂の観点に立ってみれば、それは現実生活の襞に落ち着く心の動きにすぎない。

●超越的で進歩的なより高い目標や欲求の地点から見ると、魂は退行的に見えるのかもしれない。疎外された魂は、痛ましい憂鬱に彩られた孤独を生み出さずにはいない。



■魂は未来よりも過去へと向かう

●魂は未来よりも過去へとむかう傾向があり、人間や場所や出来事から離れるのではなく、愛着したがる。表向きの生活では、人と別れ、場所を去っていくが、記憶や夢のなかで、魂は以前愛着していたものにしがみつく。
魂を気づかうには、矛盾はしていても明らかに自然なこうした傾向を敬う必要がある。別れたいと思っている人に執着する夢をくりかえし見るなら、その夢の意図をくみ、変化を強引にもとめずに、苦痛に満ちたわずらわしい記憶が心に居すわれる場所をあたえてやればよい。もし単純にそれらの執着に抗して走りつづければ、魂の一部を失う危険がある。魂の欲求を犠牲にして勝ちとられた自由は、すっきりした達成感をもたらしてくれないかもしれない。


「鬱」という状態に関する、私たちのごく一般的なイメージで言えば、何か気の滅入るような現実の出来事や状況に対する、しごくまっとうな心の反応、というふうになるだろう。

K子の人生が、結婚・出産・父親の介護・夫の失業という具合に、めまぐるしく変化していた時期、彼女は自分が「鬱」ではないかと勘ぐる。

おそらく、伝統的な心理学の理論も、彼女の言い分に手を貸すだろう。つまり、このようなK子の心理状態を「幼児期への退行現象」と名づけるはずだ。ピラミッドの上を目指そうとする自分の願望とは裏腹なつらい現実からの逃避による防衛機制だと。

一方、魂理論は、ちょっと違う意見をもっている。

この時期の彼女が自分に「鬱」のイメージを抱いたのは、ともすると目まぐるしい現実の動きに振り回されて、浮足立ってしまう自分を、しっかりと実生活の襞のなかに落ち着かせるためなのだと。

ここで、エゴの亀裂に落ちてしまう4人の人のケーススタディのうち、Bさんのケースを思い出していただきたい。

Bさんは才能があり、もともと上昇志向の強い人でもある。しかし、なかなか芽が出ず、くすぶっている。そんな彼女に、ある日大きなチャンスが訪れる。彼女は、ここぞとばかり張り切って、求められる以上のことを思いつく限りやってしまう。しかし、それらはことごとく裏目に出て、ついに彼女はプロジェクトから排除されそうになるほど疎まれてしまう。その結果、彼女は落胆から引きこもり状態になる。

もちろん、ごく一般的に解釈するなら、Bさんの引きこもりは、よかれと思って頑張ったことが裏目に出たことによる落ち込み、というふうにとらえられるだろう。

しかし、魂理論の観点に立つなら、少し異なる解釈になる。

彼女の魂は、彼女がもともと物事に浮足立ちやすい傾向の持ち主であることを知っている。そのことに本人が気づかない限り、どんなチャンスが来てもうまくいかないこともわかっているのだ。つまり、彼女の魂は、彼女を引きこもらせることによって、その大切なことに気づかせようとしているのだ。だから、彼女はその「引きこもり」の状態を、下降のエネルギーによって、魂の「谷間」に自分を落ち着かせ、自分の強すぎる上昇志向を省みる機会とする必要がある。さもないと、彼女は何度も同じ過ちを繰り返し、魂の大切な一部を失うことになるだろう。

K子のケースに話を戻す。

K子の場合、自立心が芽生えた当初は、キャリアを積み、社会的に認められ、人からも尊敬されるような上昇的イメージを抱く。これはまさに内発的動因、内発的自己像と言い換えても差し支えないだろう。

しかしその反面、家柄や才能、もって生まれた容姿といった外発的動因、外発的自己像が、上昇志向のK子の出鼻をくじく。その結果、K子の魂はむしろ下降志向へと彼女を導く。捨てたはずの家族関係へと再びK子を引き戻し、本当はそこから卒業したいはずの過去へのノスタルジーへと向かわせる。

おそらく、彼女の魂は知っていたのだろう、このまま彼女が若いうちから独り暮らしを続け、自由と解放感を満喫しても、人間的成長にはつながらないだろうということを。そのときの彼女に必要なものは、社会的な上昇志向よりも、平凡でなおかつ込み入っているが、それでも目に見えない豊かさが潜在している土着的な生活であると。

しかし、そのことに気づかないK子は、心ならずも自分がしてしまった(と思いこんでいる?)下降志向の選択にときどき嫌気がさし、メランコリックでノスタルジックな感傷に浸る。

魂はときに、ピラミッドの頂点を目指すのでなく、体験の谷間にしがみつくことを要求してくる。

そのとき、彼女の魂は彼女にこう語りかけていたのだろう。

「今は現実の生活に追いまくられて、目が回っているかもしれない。しかし、そこがお前の生きる場所だ。そこにしっかりと足をつけ、ふり落とされないようにしがみついていなさい。つらいときは、感傷に浸っても懐古的になってもかまわない。いずれお前に大きなご褒美がもたらされるだろう」


参考引用 「ソウルメイト、愛と親しさの鍵」トマス・ムーア (著), 菅 靖彦 (翻訳)平凡社


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2019年05月19日

ケーススタディ:K子の人生

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さて、前回はトマス・ムーアが語る魂の根本原理について概観した。

特に人間関係の問題に、魂の観点を導入することによって、まるでオセロゲームのように、白だと思っていたものが黒だった、黒だと思っていたものが白だった、という具合に、ものの見方に逆転現象が起こってくる、というのだ。

それを、これからシリーズで細かく見ていくにあたり、具体的なケーススタディとして、次のようなショートストーリーを考えたので、まずそれをご紹介しておこう。

これ以降のシリーズを通して、このケーススタディを引用しながら説明を加えることになる。


■ショートストーリー:K子の人生

K子は小さい頃からほぼ毎晩不思議な夢を見て、朝目が覚めた後も、それをはっきり覚えていた。夢にいったいどんな意味があるのだろう。現実ではないもうひとつ別の世界があって、自分が夜寝ている間に、その世界が目を覚まし、動物たちや、架空の生き物たちや、別の人格たちがドラマを演じていて、そこに自分も参加している。何か別の物語が毎晩紐解かれているように思えて仕方がなかった。それは、「死」の世界かもしれないし、いつか解かれるべき謎かもしれなかった。そんなふうに、夢はK子に強烈なリアリティを与えるものだった。

しかし、他の人たちは、夢は非現実的な取るに足らない絵空事、人生の「灰汁(あく)」のようなものだと思っていることに、K子は気づいていた。自分が真剣に夢の話をしようものなら、フンと鼻で笑われるか、怪訝な顔をされて疎まれるか、いずれにしろまともに取り合ってくれる人など一人もいなかった。

自分は、何でこんなに夢ばかり見て、それが気になって仕方がないのだろう。

自分は現実の明るみではなく、非現実的な夢の暗がりの中の住人なのだろうか?

自分は暗くネガティブな性格で、悪いことが起きてしまうのではないかと常に怯え、警戒しているのかもしれない。


やがてK子は思春期を迎え、密かに自我が芽生えるのを感じていた。それとほぼ同時に、ある抑えきれない衝動も芽生えていた。

家族は、押しつけがましく、支配的で、口では「早く親の手を離れろ」と言っておきながら、態度や行動では自分の自立を阻もうとしているように思えて仕方がない。このままこの家にいて、この人たちと付き合っていたら、自分はダメになる。独りになりたい。

それはごく自然な自立心の芽生えでもあった。

K子に明確な自立のプランがあるわけではなかったが、それでも漠然とした人生のイメージのようなものがないわけではなかった。きちんと学校を卒業して、キャリアを積んで、社会に認められ、人からも尊敬される人間になること。

しかし、そのように前向きになるかと思えば、次の瞬間には後ろ向きな思いが芽生える。

自分は特別な家柄に生まれたわけでもなく、特別な才能を授かったわけでもなく、格別美人というわけでもない。見た目がよく、才能もあり、家柄もいい人が羨ましい。そういう人は何の苦労もなく人生を歩んでいけるのだろう。運命はあまりに不公平だ。


K子は、これといって明確な目的を見いだしたわけではなかったが、大学に入学したのを機に、親を何とか説得し、アパートを借りて独り暮らしを始め、バイトも始めた。それは、何と自由で解放的な日々だったろう。

しかし、それも長くは続かなかった。K子が二十歳を過ぎた頃、実家で両親と同居していたK子の祖母がいよいよ歳を取り、ボケて介護が必要になってきたのだ。K子の母親が祖母の面倒を看ていたが、母親はK子に手伝ってもらいたい様子がありありとわかった。仕方なくK子は実家に戻った。

「ああ、自分はこうして家族に煩わされて、やりたいこともできず、なりたい自分にもなれず、家族という重荷を背負って生きていくのか」

そんなK子の唯一の慰めは、自分の子供時代の思い出をたどることだった。息抜きに、近くにある母校を訪ねてみたり、古いアルバムを紐解いてみたり。しかし、そんな感傷的になっている自分を完全には認めてやれない自分もいた。


やがてK子は大学を卒業し、就職した。

仕事が忙しくなってきた頃、祖母がなくなり、K子は再び家を出た。

K子はしばらく独身の独り暮らしを謳歌していたが、やがて恋人を見つけ、結婚した。

これでしばらくは夫と二人、気ままな新婚生活を楽しめると思っていた矢先、今度は実家の父親が病気になった。母親も歳を取ってきたので、祖母のとき以上にK子が介護を手伝わなければならなくなった。

K子は仕方なく、夫を拝み倒して、実家に一緒に住んでもらうことにした。

「またしても自分は、巻き込まれ人生、奉仕の人生を送らなければならないのか。今度は夫も巻き込んで・・・」と、K子は自分の運命を呪った。


そうこうしているうちに、子どもが生まれ、K子は家事と育児に追われ、細かいことを気にしている余裕はなくなった。

そんな矢先、今度は夫の会社が立ちいかなくなった。夫は失業し、新たな職探しが始まった。

人生の先行きがまったく見えないまま、日々の生活に追われる毎日が続いた。

その時期から、K子は何となく自分は「鬱」なのではないかと思い始めた。

子育てのストレス、夫の再就職の不安、父親の介護の煩わしさ・・・そうしたものがすべて自分にのしかかってきて、とうとう自分は鬱になってしまったのだと感じた。


ちょうどその頃、ある人物と出会った。その人物は社会的に成功していて、経済的にも余裕があり、その上、人々の精神的な向上を目指すボランティア活動もしていた。K子がその人物に、自分の現状を相談してみると、こんな答えが返ってきた。


あなたは、家を出たり戻ったりを繰り返している。家族が自分にとって重荷であるとわかっていながら、それに振り回されている。反発を感じるものにしがみついているのだ。

こんな人たちと付き合えるか、と思いながらも、自分がいなければ、この人たちはダメになる、と思っている。つまり、誰かに頼りにされている自分自身にしがみついているのだ。相手があなたに依存していると同時に、あなたも相手に依存しているのだ。これを「共依存」と言う。これは、お互いにとってよくない。


この人の言う通りだと思った。

すっきりと割り切れるこの見事な分析の言葉は、K子の心の中でずっと鳴り響いていた。

しかし、この人の助言通りにすると、自分は病気の父親と歳をとった母親を残して家を出なければならない。夫と子どもはどうするのか。何もかも放り出して、一人になれ、というのだろうか?

人生のリセット?

K子の心の中で、激しい葛藤が渦巻き、とめどない心のおしゃべりの声が続いていた。

しかし、その声をどこかで冷静に聞いているもう一人の自分がいることを感じてもいた。そのもう一人の自分は、延々と繰り返される心のおしゃべり、複数の人格がそれぞれ勝手なことをしゃべっているようなその状態を、どこかで冷静に聞いていた。


K子は、何となく思った。こういう差し迫った状況だからこそ、以前から気になっていたあのことに取り組んでみよう。子供の頃から気になっていた夢のこと。夢には何かしら人生の秘密が隠されているに違いない。今こそそれを解き明かしたい。

K子は強い衝動にかられ、夢や心理学に関する本を片っ端から買い込んできて、読み漁った。しかし、自分の夢をどのように解釈したらいいのか、どれも決め手に欠けていた。

そんな折、知人に紹介されて、夢の研究をしているという専門家と出会った。K子が、子どもの頃からの夢に対する深い関心について話すと、その専門家はじっくり真剣に話を聞いてくれ、自分もそうだったと共感してくれた。K子は初めて理解者に出会ったと思い、自分の現状の問題を話し、最近見た気になる夢の話もしてみた。するとその研究者は、夢の具体的な読み解き方を懇切丁寧に教えてくれた。一回の夢の解釈ではなく、どんな夢でも読み解ける特別なノウハウを授けてくれたのだ。


それからしばらくして、K子はある夢を見た。その夢の具体的な内容はここには書かないが、K子は夢の読み解き方を習って知っていたため、さっそくその手法にあてはめてみた。すると、思ってもみなかったメッセージが現れた。どこにいて誰と何をしようが関係ない、というのだ。住む場所や、付き合う人や、何をして生きているかは、いっさい関係ない。重要なことは、日のあたる場所であれこれと動き回って汗をかくことではなく、常に木蔭にいること。木蔭はどこにでもある。そこは明るみと暗がりが混然一体となっている場所であり、そこに憩ってさえいれば、常に涼しい風を感じ、汗をかくこともなく、穏やかでいられる。

その日からK子は、常に自分の心の中に、あの夢の場面、気持ちのいい木蔭をイメージするようにした。すると、不思議な変化が現れた。それまでなぜか言い出せなかった「No」が言えるようになったのだ。それも、心を搔き乱すことなく、サラっと自然に・・・。自分が嫌だと思う何かに、素直に「No」と言ったからといって、その場の雰囲気を壊すわけでもなく、誰に嫌われるわけでもないことを、K子は学んだ。そして、さらに不思議なことに、K子にそのような変化が訪れると、それが伝染するように、周りの人間も、より自立的に振る舞うようになっていった。


そんな状況とシンクロするようにして、夫に一種の被害者意識が芽生えていた。新婚当時に、義父の病気によって妻の実家での同居を余儀なくされる。そうかと思えば会社が傾いたことで失業の憂き目にあう。そんなことが続いた夫は、妻が急に夢の勉強を始めたことに対して反発心を抱いていた。ところが妻は、何かにつけ、さりげなくではあるが、夢の話をしかけてくるようになった。昨日こんな夢を見た、あんな夢を見た、という具合に。そして妻は、夫が見た夢の話も聞きたがった。夫はそんな妻を疎ましく思うようになった。自分の人生がこんなにややこしくなっている矢先に、夢などというさらにややこしいテーマを自分に押しつけてくる、というわけだ。しかし、夫も心のどこかでは、妻が興味をもっていることを完全に他人事として無視はできないでいた。

そんなとき、夫はある気になる夢を見た。そのことを思い切って妻に話すと、さっそく妻は習った手法を用いて、その夢の意味を夫から見事に引き出してみせた。そのとき夫は、自分の心のなかの秘密を知ったのだ。正直、そのときの夫は、転職に迷いがあった。家族の生活のためには、一刻も早く自分が再就職しなければならない。しかし、もう二度と失敗したくない、という思いもあり、本当に自分が生涯を通じて取り組みたいと思える仕事とは何かを真剣に考えていたのだ。経済的安定を優先するがあまり、どこかでライフワークへの取り組みを二の次にしている部分もあった。ところがその夢は、経済的な安定よりも、ライフワークへの取り組みを優先させることを物語っていた。結果的にはそれが安定した収入にもむすびつく、というのだ。

夫に発想の転換が訪れ、就活の方針を変えたとたん、夫は理想的な職に巡り合ったのだ。


それから15年の月日が流れた。

子どもが自分の手を離れ、心に余裕が出てきたK子は、ふと今までの人生を振り返ったとき、昔はいっさい見えなかったものが見えている自分を自覚した。それは家族のひとりひとりが、何を望み、何を諦め、何に一喜一憂してきたか、その全体像である。人が生きるということの喜びと苦しみ、ある関係性で結ばれ、ともに生き、そのつながりがすべて自分を形作っているということ。そして、それらをすべて受け止めている自分がいるということ。

すべては必然の糸で紡ぎ合わされ、ひとつの織物になっている。どれひとつとってもかけがえのない自分の人生の要素なのだということ。

そうだ、本を書こう! 今までの人生の集大成として・・・。

自分は文章が特別うまいわけではないが、人に伝えたいことだけはいっぱいある。それはきっと、これから同じような道を歩もうとする人たちの役に立つはずだ。

そう考えると、今までの人生の苦労は、すべて本を書くためにあったようにさえ思えた。

K子はさっそく書き始めたが、本を書くということは、もちろん簡単なことではなかった。文章を書くことそのものよりも、もっと複雑で骨の折れる作業があることがわかった。それは、今まで人に巻き込まれる犠牲者の物語だと思っていた自分の人生を、まったく別の視点から見つめ直すという作業だ。

そうか、これが魂の意図だったのか。

自分はなぜこんなやっかいなことを始めてしまったのか、と後悔することもあった。しかし、K子はやめなかった。そうした粘り強い地道な作業を続けるうち、あの人物に言われた「共依存」という分析にも、まったく別の光があたるようになってきた。人は、心理学の概念通りに人生を生きるわけではない。いかなる理論にも還元できない理不尽さ、不可思議さのなかにこそ、人生の答えがある。それが魂の意図なのだ。

人生がリセットされたのではない。ものの考え方がリセットされたのだ。

そしてK子はついに書き上げた。

するとまた不思議なことが起きた。その瞬間から、K子の頭の中に、二冊目の本の構想がなだれを打つように溢れてきたのだ。

そうしてK子は気づいた、自分は作家の魂をもった人間であることに。



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2019年05月18日

トマス・ムーアが語る魂の原理(その1)

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「魂」だとか「守護霊」だとかというと、占いか何かのように、ちょっとした娯楽的なファンタジーとして、一時の茶飲み話としてはいいが、理性を備えたいい歳の大人がクソ真面目に論じるような類の話題ではないと、あなたは思うかもしれない。

しかし、人生には、理性や合理的な精神では割り切れない非合理な側面、社会的な常識や因習では解決できない問題、誰に相談しようが埒が明かず、自分独自の対処が求められるような出来事がついてまわる。

特に愛する人との人間関係には、目に見えない力が働いていて、一筋縄ではいかない側面があり、関係を深め、長続きさせるには、その部分にこそ注目しなければならないことを、私たちは知っている。


宗教学者であり心理療法家であり作家でもあるトマス・ムーアは、魂の観点から人間を語る名人と言えるだろう。

特に「ソウルメイト、愛と親しさの鍵」(平凡社)は、人間関係に悩む人にとっては示唆に富む福音書だ。
この本の中で著者は、人間関係の構築にあたって、「魂」や「守護霊」というものがどのように発露するかを、絶妙な語り口で語っている。

そこで、トマス・ムーアの語り口を借りて、魂の肖像を描いてみたいと思う。

このテーマは、何回かに分けて、シリーズで発表していく。

※本文中の引用はすべて同書より(●で始まる文節)
参考引用 「ソウルメイト、愛と親しさの鍵」トマス・ムーア (著), 菅 靖彦 (翻訳)平凡社




■魂という概念が重要な理由

まず、トマス・ムーアは、人間の人生、特に他人との関係性の部分に、なぜ「魂」という概念を持ち込むのか、その理由について次のように説明している。

「魂は、物事のもうひとつ別の側面を見せてくれる」

●魂に焦点をあてていれば、人間関係のなかで起こった出来事の理由を詮索することや、どうすれば関係を改善できるかということには、あまり興味がわいてこない。われわれの関心事は魂それ自体の目的にある。(中略)「正しい」関係にとらわれればとらわれるほど、われわれは背負いきれない重荷を背負いこむことになる。しかし、魂に焦点をあてれば、そのような重荷を背負うことはないし、情緒的な葛藤におちいったとしても、落胆する必要はない。関係が破綻したらその破綻がもたらしてくれるものを、危機におちいったらその危機がもたらしてくれるものを、転機にさしかかったらその転機がもたらしてくれるものを、十分に味わい尽くせばいいのだ。


転職経験者に、前職を辞めた理由をたずねると、たいていの人が「職場の人間関係」と答えるかもしれない。離婚経験者に、離婚の理由をたずねると、たいていの人が「性格の不一致」と答えるかもしれない。しかし、不特定多数の人が共通の目的に向かって多くの時間を共有する職場で、人間関係がややこしくならない方が奇跡だろうし、人生のもっとも長い時間を共有する伴侶、つまり運命を共にしようとする赤の他人と自分の性格が完全に一致することなどあり得ない。

それでも私たちは、職場の人間関係や夫婦の絆に問題が発生すると、何とか改善すべく奮闘する。職場では仕事をすることが本分であり、家庭では家族の日常を滞りなく運営することが本分のはずが、そうではない副次的なことに悩まされるわけだ。本分に集中しようとすると、どうしても副次的な部分では上辺を取り繕うことになるが、それで問題が解決したわけではない。内面では「正しい」関係を求めては葛藤し、落胆し、重い十字架を背負うことになる。

ところが、いざ魂に焦点をあてると、事情はまったく変わってくるというのだ。こんなに有り難いことはないではないか。人生の苦悩の半分は解消したようなものだ。

ただし、条件がひとつ。

魂の目的を知ること。

でも、どうやって? そう、そこが肝要だ。

慌てないで見ていこう。人間関係のあり方を深く見ていくことは、自分の魂のありようを知ることにほかならない、とトマス・ムーアは言うのだから。


「魂は、善悪の彼岸に住んでいる」

●魂の観点から人間関係を見ることのもう一つの意義は、人間関係につきまといがちな不幸な側面、たとえば、影の側面やどうしようもない隔たりに対して、寛容になれるという点にある。われわれはふつう、関係はとどこおりなく完璧であるべきだと考え、困難が生じると、関係そのものに問題があると思いこむ。しかし、魂の出来事は単純な善悪の判断や、関係がうまくいっているかどうかの判断を超えたところに存在しているのだ。(中略)困難はかならずしも、その関係にまちがったところがあることを意味するわけではない。逆に、関係のごたごたは親密になるためのつらい通過儀礼にもなりうるのだ。


魂という視点から人間関係を見ていくと、失敗、破局、コンプレックス、疑惑、よそよそしさ、別離と自由への欲求、その他のやっかいな側面に肯定的な価値を見いだすことが可能となる。

私たちは、人間関係を評定するとき、往々にして、正解か不正解か、という二者択一で判断しがちだ。長続きするなら正解で、別れるなら不正解、という具合に。しかし、人間関係にスパッと割り切れる合理性は通用しない。そこへ魂の観点を導入するなら、否定的な側面に肯定的な価値を見いだすことができるというのだ。これまた有り難い話だが、実際の作業はそれほど容易なことではない。粘り強い忍耐と思い切りのよい大胆さが要求される、骨の折れる作業だ。だからこそトマス・ムーアは「つらい通過儀礼」と呼んでいるのだ。しかし、そこをくぐり抜けたら、自分の魂の目的を見いだす、というご褒美があなたにもたらされるかもしれない。あなたがひとたびその報酬を手に入れたら、それから先、人間関係に常に肯定的な側面を見いだし続けることができるわけであり、正解か不正解か、という判断を超えた魂同士の関係性を築くことも可能になってくるわけだ。

さあ、覚悟を決めよう。


■魂の第一原理「弁証法」

トマス・ムーアは同書のなかで、魂のさまざまな特徴、傾向、働き方について挙げている。

それを今からひとつひとつ見ていこうと思うが、そのなかでも、もっとも特筆すべき根本的な魂の力学的原理であると思えるものが、これだ。


「魂は、弁証法的に働く」

●親しさは自分自身と和解することからはじまる。もし自分自身を疎外したり、自己を分裂させたまま放置していたのでは、友人や恋人、家族の者と親密な関係をきずこうとしてもうまくいくはずがない。すべての心理的な体験が内的なものだと言いたいのではない。個人の魂の力学、ドラマ、性格などは外側の世界で演じられることになるので、人間関係はつねに内部と外部との弁証法になると言いたいのだ。現実の人生と魂の生活とのダンスになると言い換えてもよい。


弁証法とは、簡単に言うと、相反する二つの概念を統合する方法論ということだ。まったく正反対のベクトルをもつAとBという選択肢があったとき、「AでもありBでもある」と同時に「AでもなければBでもない」という第三の答えに到達することを意味する。

たとえば、あなたの外面で起きていることと内面で起きていることが対立し分裂しているとする。実は人間関係がうまくいかない原因のほとんどは、この状態にあるのだが、あなたがそれに気づかず、その状態が自分の通常の状態だと思いこんでいる限り、問題は永遠に解決しない。むしろ引き起こされるトラブルはエスカレートする。

私は以前、4人の人たちの運命をたどりながら、エゴの亀裂に落ちることの意味をケーススタディ形式で分析したが、そのうちのAさんの例を思い出していただきたい。

Aさんは、自分が苦労して習得した技術を活かして起業し、それなりの成功を収めたが、自分が組織の経営に向いていないことを何となく感じていた。あまりやりたいとも思わないし、適性があるかも怪しい仕事を、生活のために、あるいは責任ある立場だから、という理由で続けている状況は、極度のストレスをAさんにもたらし、ついにAさんは体を壊すところまで行ってしまう。それでもAさんは仕事を辞められない。そのストレスのはけ口は、従業員に向けられ、職場の雰囲気は最悪の状態になり、次第に経営は傾き始める。しかしAさんは、このような状況が自分のせいだとは気づいていない。それどころかAさんは、正しいことをあたりまえのようにやっているだけだと思いこんでいる。ところが、Aさんの従業員に対する態度は、かつて自分が指導者から受けたひどい仕打ちを踏襲するようなものだったのだ。時を超えた負の連鎖が起きている。

おそらくAさんは、すべての状況の原因を、無意識下(魂レベル)では気づいている。だからこそ自分の肉体的な症状として出ているのだろう。

Aさんは、信頼できる友人や、うまくいっている同業者などに、自分の窮状を相談するのだが、そういう周りの人たちは、目に見えない無意識の通路で起きている負の連鎖にまでは思いが至らないため、せっかく苦労して現在の地位を手に入れたのだから、何とか維持すべきだと助言するばかりである。

簡単に言うと、Aさんの外面的状況は、事業の継続(現在の職場の維持)を要求している。一方内面的状況は、Aさんが仕事の現場から一刻も早く退くことを要求している。どちらを採るのも地獄である。だからこそ、両方を成立させたうえで、どちらでもない、という第三の道が必要なのだろう。さもなくば、問題はますますこじれるばかりだ。そして、最終的な答えを出すのはAさんの魂でしかない。

今のAさんに、何はさておき必要なことはストレスの解消かもしれない。もちろんそれは急場しのぎの処方箋にすぎない。ストレスを和らげ、頭がクリアになったところで考えなければならないのは、自分の魂が本当は何を望んでいるのか、ということだ。どのように生活を成り立たせるか、でもなく、職場の人間関係をどうするか、という問題ですらない。まさに、自分とどう和解し、分裂した自己をどう統合するか、という問題なのだ。

過去に指導者からひどい仕打ちを受けた自分、生活のために本当にやりたいことをやっていない自分、自分に適性がないことを自分で始めてしまった自分、自分が人にやられて嫌だなと思っていたことを人にやってしまっている自分・・・そうした状況に、どのような決着をつけるか、それこそがトマス・ムーアの言う「内部と外部との弁証法」であり「現実の人生と魂の生活とのダンス」である。

もちろんそのためには、犠牲にしなければならないこともある。何を選ぶか、ではなく何を捨てるか、が問題になってくるかもしれない。その取捨選択の基準を提供してくれるのは、世間的な常識でもなく、他人の助言でもなく、自分の慣れ親しんだ価値観ですらなく、自分の魂の目的以外にはないのだ。


●魂に没頭すると、それまで執着していたさまざまなものを手放さなければならなくなる。魂に独自の意志と目的をあたえようとすると、長い間、抱いてきた価値観や期待にしがみつくのをやめなければならないこともある。



●もちろん、世俗の人生を楽しむことも大切だ。しかし、霊的な次元を欠いた人生は不完全である。




※シリーズ第一回はここまで。

次回以降のテーマを、「魂の原理」のまとめとして以下に掲げておく(順不同)。

「魂は、明るみよりも暗がり、ポジティブさよりもネガティブさの方に注意を向けさせる」
「魂は、ピラミッドの頂点ではなく、体験の谷間に住んでいる」
「魂は、愛着と反発の両方を抱かせる」
「魂は、知的分析よりも、詩的夢想を好む」
「魂は、未来よりも過去へと向かう」
「魂は、直線的ではなく、段階的に、あるいは反復的に、あるいは不規則に進む」
「魂は、人生に緊張感を強いる」
「魂には、人格的階層構造がある」
「魂は、多面的である」
「魂の栄養素は想像力である」
「魂は、自分独自のオリジナルの辞書をもっている」
「魂は、ときに魔術や錬金術という手段を用いる」
「魂は、死と再生のプロセスをもたらす」
「魂は、夢のなかに大胆に姿を現す」
「魂の道は、否定によって開かれることもある」


posted by AK at 18:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 論考
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