2019年07月22日

知的エンタテインメント(その3)

dolphin-2409511_1920.jpg

エコロジストのライアル・ワトソン博士が来日シンポジウムでこんな話をしていた。
当時、ガラス張りの水槽でイルカを飼って研究していた博士のもとに、ある日、一人のジャーナリストが取材にやって来た。

「イルカには知性がある」というワトソン博士の主張に懐疑的なジャーナリスト先生が、水槽の横でパイプをくゆらしながらインタビューを始めると、好奇心にかられた赤ちゃんイルカがガラス越しに近づいてきた。
それに気づいたジャーナリスト先生は、からかい半分に赤ちゃんイルカめがけ、パイプの煙をプーッと吹きかけた。
驚いたのは赤ちゃんイルカ。
おそらく白い煙など生まれて初めて見たのだろう。一瞬たじろいだかと思うと、クルッときびすを翻して、お母さんイルカの方へ行ってしまった。ジャーナリスト先生はしたり顔。

ところが赤ちゃんイルカはすぐに引き返してきて、ジャーナリスト先生めがけ、白い煙をプーッと吹きかけて見せたのだ。もちろん赤ちゃんイルカがパイプもタバコも吸うはずがない。それはお母さんイルカのオッパイだったのだ。

「想像力とは人間固有の能力だ」と言ってはばからない学者諸子に聞かせてやりたい話である。
posted by AK at 08:35| Comment(0) | 知的エンタテインメント

2019年07月21日

知的エンタテインメント(その2)

nurse-2019420_1920 (2).jpg

ある看護師養成学校の入学試験での実際のお話。

看護師の「看」という字を分解すると「手」と「目」に分かれる。そこで作文試験に次のようなテーマが出された。
「あなたが手で行う最良の行為は?」
この難問に対し、関係者全員を唸らせる見事な答えを返した学生が一人だけいたそうだ。
彼女は「祈ること」と答えたのだ。

posted by AK at 11:25| Comment(2) | 知的エンタテインメント

2019年07月20日

知的エンタテインメント(その1)

今回から、新しいシリーズをスタートさせる。
その名も「知的エンタテインメント」
クスっと笑えるジョーク、「う〜ん」と思わず唸ってしまう話、深く考えさせられるエピソードなど、知的刺激に満ちた、とっておきの話を随時紹介していく。

では、さっそくその第一弾

blanket-582083_1920.jpg

アメリカのカウンセラーであるテリー・コール・ウィッタカーは、その著書「私がわたしを生きる本」(KKベストセラーズ)の中で、こんな話をしている。



彼が十代の頃、よく友人たちと、あるゲームをした。
あらかじめルールを知っている何人かが集まり、ルールを知らない人をひとり呼び出し、床に座らせ、頭からすっぽり毛布をかぶせる。
そして、その人に「あなたは何か不必要なものを身につけているから、それをとって投げて」と頼む。

すると、ほとんどの人は、さんざん悩んだ末に、決まってシャツやソックスを脱いだり、ネックレスなどを外して、毛布の外に投げてよこす。

不思議なことに、いちばん不必要なものは、その毛布であることに、誰も気づかない。


2019年07月19日

アダルトチルドレン徹底批判(その3)

どんぐり理論は、「あなたのすべての運命は、あらかじめ決められている」とは言わない。
また、「未来に待っているたったひとつの目的に引っ張られて、過去も現在も進行する」とも言わない。

どんぐり理論は、運命論と目的論のちょうど中間に位置するものと、私は認識している。運命論と目的論がもつ重要な要素はそれぞれ残したまま、両者の極端になりすぎている部分をきちんと修正しているのが「どんぐり理論」と言えるだろう。
どのような方向への修正かと言えば、遺伝学、脳科学、精神医学、行動主義心理学など、長年の諸科学的知見が標榜する客観性から、個人の主観性、個人の人生物語がもつ神話的な作用への修正であり、集団の論理から個の論理への修正である。

つまり、アダルトチルドレン理論がやり続けている「マッチポンプ」・・・個の問題をいったん「群れ」の問題へと延焼させ、再び個の「自由選択」の問題へと責任転嫁し、そしてさらに「グリーフワーク」というかたちで「共有財産」「共有認識」のように扱って鎮静化させる、という具合に振り回している「諸刃の剣」を、どんぐり理論は、いったん鞘に収めさせ、激しく揺れ動いている振り子の中心を指さしてみせてくれる。

■「どんぐり理論」と「運命論」の違い

まず、「どんぐり理論」と「運命論」を比較してみよう。

運命論は、「私の人生に起きることはすべて、あらかじめ決められた運命である」とする。
どのような時代の、どのような国に、どのような親、どのような環境のもとに生まれたか、それはすべてあらかじめ定められた運命であり、生きる主体である「わたし」には、選ぶことも変えることもできない、とするのが運命論だ。
「わたしの運命」を決めている主体が、遺伝子であろうが、運命の女神であろうが、あるいは誕生の瞬間における星座の位置であろうが、あるいは統計的な推論であろうが、「わたし」でないならば、それは運命論だ。
遺伝子の働きを絶対視するなら、「遺伝子型決定論的運命論」と呼ばれるかもしれない。
親や祖先がやったこと(やらなかったこと)が原因で、今の「私の運命」がある、とするなら「因果論的運命論」になるだろう。

アダルトチルドレン理論が、「あなたは親を選べないし、生まれてきた環境も選べないし、変えることもできない。だから甘んじて受け入れるしかない」と言うなら、それは「因果論的運命論」になる。
もし、さらに「あなたの性格や人格の形成要因、依存や嗜虐といった機能不全の原因は、すべて親および家庭環境にある。それ以外の影響主体はあり得ない」と、そこまで言い切るとしたら、それは「決定論的運命論」になるだろう。

たとえばアダルトチルドレン理論では、父親が母親に暴力をふるうのを目撃して育った子どもは、たとえ自分が直接暴力を受けなかったとしても、暴力の被害者あるいは加害者になりやすい、としている。また、夫の暴力の被害者になった妻は、その反動から自分の子どもを虐待しやすい傾向を示すともいう。
それでは、なぜ夫が、妻や子どもに暴力をふるうようになったのかというと、夫自身の子どもの頃の非虐待経験、つまりトラウマにその原因を求めるのである。
夫の暴力癖が妻を媒体にして子どもに伝染し、やがてそのまた子どもに受け継がれるだろう、という発想だ。
いわゆる「親の因果が子にむくい」式の「世代間連鎖の法則」というやつだ。
これも一種の因果論的運命論である。

運命論は、生きる主体が自分の人生に関与する余地を巧妙に抑え込むため、当然人は自分の運命を呪い、卑屈になり、苛立ち、攻撃的になるだろう。
アダルトチルドレン理論は、運命論に依拠している限り、つまり「あなたが抱える問題の原因は、機能不全の親にある。その事実は変えようがない。そんな環境に生まれてきたのは、貧乏くじを引かされて仕方がなかったのだ。決定的であるものは、受け入れるしかない」と言う限り、因果論的であるうえに決定論的でもあるというふうに、二重の意味でアダルトチルドレンから自分の人生への関与の余地を奪うことにもなりかねない。
こんな状態では、アダルトチルドレンたちが、「自分の人生がままならないのは、すべて親のせい。恋人ができないのも、就職がうまくいかないのも、人間関係で悩むのも、すべてはこんな親をもったがゆえなのだ」と考えたとしても仕方がないではないか。
この人は思考の堂々巡りを繰り返すだけで、結局この人の人生には何ら主体的なことは起きない。メス狼は自分が鎖につながれていることを繰り返し再認識するだけの話だ。

運命論は言う。
人生に不意に訪れる不運な出来事は、私のあずかり知らない運命の女神がもたらしたもので、それが私の人生を大きく左右し、決定している。つまり出来事は一瞬のうちに起こるが、その出来事を起こさせる運命の女神の力は、私の人生を常に操っている。もし、個人の機能不全の原因をその人の親の機能不全に求めるなら、その人の運命の女神の権限を親に譲り渡していることに等しい。
かくして運命論者は、親のご機嫌を気にするのと同じレベルで、幸運に恵まれると幸運の女神に感謝し、不運に見舞われるとその責任を運命の女神に帰すこととなる。

ここで、運命論者はこう言うかも知れない。
「私たちは生まれながらにして一人一人独自のどんぐりをもっていて、そのどんぐりの中には、やがて樫の木となるべきすべての要素が詰まっている」とする「どんぐり理論」もまた、一種の運命論なのではないか。
どんぐりの中の要素は樫の木となるべきものであり、他のいかなる木にもなり得ないもののはずだ。プラトンが描いた魂の運命物語にしても、魂は多くの見本の中からたった一つの生涯を選ぶのではなかったか。

確かにその通りだ。
樫の木になるべき要素は、樫の木以外にはなり得ないし、私の魂が選んだ生涯は、あなたの魂が選んだ生涯ではあり得ない。
しかし、どんぐり理論は言う。
どんぐりの中には樫の木となるべきすべての要素が含まれるものの、どのような道筋を経てなるかまでプログラムされているわけではない。
魂の物語も、私たちは自分の魂に見合った生涯を選ぶものの、その生涯に起こるすべての出来事や、その生涯が最終的にどこに到達するかまで決定されている、と言っているわけではない。

ヒルマンは、運命を一瞬の「介入する変数」と想像した方がよさそうだ、と言っている。まばたきの間に通りすぎ、瞬間的に影響を与える小さな神、あるいは仲立ちの天使のようなもの・・・。
どんぐりの中には、ある種の計画ないし青写真のようなものが書き込まれていて、その生涯において折に触れ、立ち現れる「かたち」ないしイメージが存在し、そのイメージにそぐわないものを魂は遠ざけ、それに見合ったものだけを選択する、とヒルマンは言う。
運命の女神は、私たちに代わってすべてを決定するわけではない。人生の法則の中に、ある変数が与えられ、私たちがそこにどのような数値を代入するかは、私たちの自由選択に任されている。運命の女神は、私たちのその選択にあたって、いわば「それは、あなたらしいか、そうでないか」といったイメージ、つまりどんぐりの「かたち」を思い出させようとするのだろう。

そこでもう一度、魂の物語では、どんな生涯を選択するかは、選択者の責任であったことを思い出していただきたい。
神に責任はない。
まさに、魂がどの生涯を選択するかに、「人間にとってのすべての危険がかかっている」という点をプラトンも指摘している。だからこそ、私たちの一人一人は、ほかのことを学ぶのをさしおいても、魂の本性を見つめ、それに見合う選択とは何かを探求し、人からも学ぶよう心がけねばならない、とプラトンは言う。(参考:「国家」岩波文庫
トマス・ムーアの表現を借りれば、これがまさしく「魂のケア」ということだろう。

どんぐり理論は言う。
「起こったことは変えられないが、起こったからには、そこには何らかの意味があるはずだ。そこには、どのような人生の変数が介在しているのか。どんぐりの召命に耳を傾けよ。この運命は何を訴えようとしているのか。魂の本性を見抜け。選択の責任は、つねにお前にある」

こうしてあなたの運命は、あなた自身の不断の選択によって作られていくのである。

■「どんぐり理論」と「目的論」の違い

さて、次に「どんぐり理論」と「目的論」を比べてみよう。

因果論が「誰が始めたか。何が原因だったか」を問い、背後にある過去が現在の出来事を推し進めていると考えているのに対し、目的論(テレオロジー)は、その逆に「何が重要なのか。何が目的なのか」を問い、出来事が一つの目的に向かっていると考えている、とヒルマンは言う。

目的論の考えは、私たちをどこへ導くだろう。
私たちの人生が、たった一つの目的、最終的な結末に向けて引っ張られているとするならば、そうした個々の人生の寄せ集め、つまり起こっては消え、消えては起こる個々の現象の寄せ集めであるこの世界も、ひとつの結末に向けて引っ張られていく、という考えにいたるだろう。
すなわち、全人類あるいは地球も、必然の糸に引っ張られていると。

かくして、終末論的な神話が誕生する。
この神話は、科学や宗教の名を借りて、さまざまな形で語られる。これはきわめて感染力の強いウィルスのようなものかもしれない。このウィルスは、私たち個人の人生にもきわめて微細なかたちで、つまり極端に矮小化されて侵入してくる。

私は以前、「エゴとセルフ」というテーマの記事を、このブログに書いた。
そこでこんな例を出したのを思い出していただきたい。
ある主婦が、朝食に焼きたてのパンが食べたいという夫のために、朝早く買い物に行く。そのとき、その主婦がもしこう考えるとしたら・・・。
「私はなぜ、こんなに朝早く、わがままな夫のためにパンを買いに行かなければならないのだろう。一事が万事この調子なのだ。私は傲慢な夫につき従って、こうやって一生家事と育児に追われて過ごすのだ。それが私の運命なのだ」
つまり、この主婦は、自分を夫の人生の目的化させているわけだ。
もし、このような極端な目的論者の主婦が増えれば、「あらゆる女性は男性の奴隷と化している」というような極端な神話を流布させるかもしれない。
しかし、ただ単にパンを買うために店に行くだけなのだ。それ以上の意味も目的もない。

ここでもし、目的論を示す「テレオロジー」という言葉から「オロジー」を落として「テロス」という言葉だけ考えれば、この言葉の本来の意味に立ち戻ることができる、とヒルマンは言う。

●「テロスとは、ただ『そのために』を意味した」(H)

●「テロスとは、ある行為についての、限定された、そして特定の理由を与えるだけだ。テロスはすべての行為には目的があると想像するが、しかし、行為全体を統べる目的があるとはいわない。すべてを統べる目的となれば、それはテレオロジー、あるいは運命論になってしまうのだ」(H)


運命が起こったことの一部を占めるにすぎないように、目的(テロス)も、ある行為についての特定の理由を与えるだけだ、とヒルマンは言う。

それでは、その特定の理由とは具体的にどんなものか。テロスとは、いつどんなふうに現れるのか。
「私はあのときなぜあんな行動をとったのか。あの行動の目的とは何だったのか」

たとえば、あなたは明確な目的意識をもって生きているとする。
しかし、あるときある出来事が起きる。その偶然に起きた不運な出来事は、あなたの人生の目的を先送りにすることを余儀なくさせるかもしれない。
そこでどんぐり理論は、「なぜそれが起きたのか、意味を考えろ」とあなたに迫る。
あなたは思う。
「これは運命の女神の妨害工作なのか。この突然の障害は、無意味な撹乱要因なのだろうか。あるいは、それ自体に特定の意味があるのだろうか。」

重要なのは、妨害が目的をもっているかどうかではない、とヒルマンは言う。
重要なのは「目的があるのでは、という視点をもって見つめ、予期せぬことに価値を見いだそうとすることだ」

●「目的を求める目は、『偶然の事故(アクシデント)』をただ事故と見るのではない。魂は、その事故をかたちの内に合わせていこうとするのだ」(H)


ヒルマンは、ファンタジー作家のジェイムズ・バリーの例を紹介している。
ジェイムズは、6歳か7歳のときに、兄を事故で亡くした。母親はその死を悼んで自室に引きこもり、病人のような生活を送っていた。ジェイムズは病室で母親のそばにいて、母親を笑わせようと、たくさんの作り話を語って聞かせたという。

アダルトチルドレン概念の支持者がこの話を聞いたら、さぞかし「共依存」の関係を疑うことだろう。
ここでもし、幼いジェイムズ・バリーが鬱症状でも示そうものなら、なおのことである。
「兄の突然の死がトラウマとなり、母親の引きこもりがジェイムズの感情の抑圧を招いた」といったところだ。

しかし、実際にはまったく別のことが起きる。
突然の災難と長く続く鬱屈した雰囲気が、彼の心に一種の「科学変化」を起こさせたのだ。

●「どんぐりはファンタジーの作家であるバリーのイメージにふさわしくなるように、事故、悲しみを、そして監禁状態を変容させていった」(H)


因果論的運命論なら、このときの語りの経験が彼を作家へと導いたのだと結論づけるだろう。
ではなぜ、ボードビリアンでも看護師でもなく、作家だったのか。

目的論的運命論ならこう言うだろう。
彼はストーリーテラーになるべくして生まれついたのであり、その目的の成就のためには、彼の兄は死ななければならず、それが原因で母親は霊閉されねばならず、彼はそれにつき合って、後のキャリアに役立つような語りの修行を積まねばならなかったのだと。

一方、どんぐり理論はこう言う。
彼の中のどんぐりがもつイメージ、そのかたちが、兄の死や母親の病や軟禁状態の生活とうまく折り合いをつけて、その目的を見いだしたのだと。

●「かたち(形相)は事故として現れるばかりではなく、それによって養われるのだ」(H)


後に作家となるジェイムズ・バリーの魂は、不運な災難によってそのイメージ、どんぐりに書き込まれた計画の一端を表し、その境遇に対してどう対処すべきか、その方向性を決め、自分のイメージをさらに確固としたものに育んだということである。

目的論(テレオロジー)は、こう言い切る。
あなたが生まれてきたのは、たったひとつの目的を果たすためだ。他の何ものでもない。あなたの人生に起こるすべてのことは、そのたったひとつの目的のために用意されたものである。それ以外のものではない。

一方どんぐり理論は、テロスとテレオロジーを混同したりはしない。
どんぐり理論は言うだろう。
この出来事が起こった背景や、それに対するあなたの感じ方、対処の仕方の中に、あなたの魂のイメージ(かたち)が宿っている。そのイメージ、そのかたちこそが、あなたの運命なのだ。たとえまったく別の出来事が起こったとしても、変わらずにあなたが示したであろう物事の捉え方のパターンにこそ、あなたが見いだすべき真の目的が宿っている。

どんぐり理論は、「あなたの両親が出会った結果、あなたが生まれたのではなく、あなたのために二人が出会ったのだ」と言うかもしれない。
「そんなバカな!」とあなたは思うだろうか?
しかし、どんぐり理論がそのように言うのは、目的論的に何かを限定したいからではなく、あなたが因果論の罠に陥ることなく、自分のどんぐりの召命に耳を傾けられるよう、テレオロジーではなく、テロスの感覚をあなたに呼び覚ましてほしいからなのだ。
あなたは、人生を「原因と結果」という観点でばかり見ていないだろうか。たまには「ある目的のために何かが起きる」と考えてみよう。

■アダルトチルドレンという運命をどんぐり理論で読み解く

さて、ここで再びアダルトチルドレンの概念に立ち戻ろう。
アダルトチルドレンは、自分が示す症状の原因を自分の親に見出そうとしている。
自分がこんな苦難にあわされるのは、酔って暴れ、自分や家族に暴力をふるった父親のせいだと。あるいは父親の暴力の被害者でありながら、自らも子どもを虐待した母親のせいだと。自分はこんな両親のもとに生まれてきて、貧乏籤を引かされたのだと。だからそんな運命とは早く縁を切り、生まれ変わりたいと。

運命論ならこうアドバイスするだろう。
すべては神様の思し召しなのだ、子どもは親を選んで生まれてくるわけにはいかないのだから、あきらめなさい、と。
また目的論ならこう言うだろう。
今はつらいかもしれないが、すべてはあなたが最終的に果たすべき目的のために必要な成長の一つの段階なのだ、と。
あるいは英雄主義(ヒロイズム)はこう言うかもしれない。
そんなくだらない親の影響など、記憶の中からただちに抹殺せよ。「トラウマ」など「トラ」と「ウマ」にくれてやれ。お前はお前だ。災難などものともせず、ひたすらわが道を行け、と。

どんぐり理論なら、何と言うだろう。
たとえばあなたの父親がアルコール依存症で、酔って家族に暴力をふるうような人間だったとする。どんぐり理論では、そんな親さえも「あなたが自分で選んだ」というわけだが、当然あなたには「何で好き好んでこんな親を選ばなければならなかったと言うのだ」という気持ちが働くだろう。
それは、あなたになるべく早く家族から離れさせ、外の広い世界を体験させ、あなたの魂に恋をするソウルメイトと早く出会わせ、「結局自分の人生というものは、自分で切り拓くものであり、親の運命の道具ではない」ということを気づかせ、それをみなにも告げ知らせるよう仕向けるためなのかもしれない。
あるいは、将来あなたに医者として、あるいはカウンセラーやセラピストとしてさまざまな依存症と闘わせ、崩壊家族を救済するという困難な仕事に向かわせるためなのかもしれない。

それはひとえに、あなたが自分の親とのつき合いをどのように理由づけし、自分が進むべき道にどう利用するかにかかっている。そして、その道はあなたのどんぐりのもつイメージによって決まる。決して親の運命で決まる問題ではない。

あなたの運命は読み解かれることを待っている。
人生の半分は謎であり、もう半分は謎解きだ。
運命論だ、決定論だ、因果論だ、あるいは「家族絶対主義」だの「両親幻想」だのにとらわれ、つまり自分の人生における「外圧」に必要以上の影響力を許し、いつまでもどんぐりの召命に耳をふさいでいると、あなたのどんぐりはときに心を苛立たせ、癇癪を引き起こすだろう。
その苛立ちや癇癪を、親から心ならずも受け継いでしまった「負の遺産」などと考えてはならない。そのような考えは、なおさらあなたを召命から遠ざけ、生まれてきた意義の発見から遠ざけてしまうだろう。

たとえアダルトチルドレンでなくても、あるいはトラウマと呼ばれる体験がなくても、召命に耳をふさぎ、自分の魂のイメージから目をそらしていれば、何となく生きている実感がない、自分がない、居場所がないという感覚は拭えないだろう。
アダルトチルドレンだけが病んでいるのではない。
だからむしろ、アダルトチルドレンという概念の中に心の救いを求め、自分の居場所を見いだしてしまうことは自己破壊的ですらある。

もちろん、緊急の場合の避難や癒しが必要でないと言っているのではない。しかしそれらは対処療法であり、単なる通過点にすぎない。
それこそ、それは、あなたがアダルトチルドレンという概念に、どのような「目的」を見出すかにかかっている。アダルトチルドレンという概念でさえ、あなたのどんぐりのかたちを見出すための道具にすぎないのだ。

危険な親、危険な場所から離れることはかまわない。しかし自分のどんぐりから離れてはならない。何から離れるかが問題なのではなく、何に近づくかが常に問題なのだ。
アダルトチルドレン概念は、あなたのグロウ・アップ(成長)を促したとしても、決してこの世界へのグロウ・ダウン(着地・定着)を促すものではない。

信田さよ子氏は、その著書『「アダルト・チルドレン」完全理解』を、次のような文章で結んでいる。



●「親の影響を受けつつも、それに支配しつくされることなく、それを怜悧に見つめきり、言語化する能力と、それを支える溢れるような感性を保ちつづけてきたこと。これこそが人間の尊厳です。ACは誇りなのです」


あなたは、こう言わないだろうか。
「私の生きづらさ、不安、苛立ち、やり場のない怒りの原因は親にあると認めることが、私の誇りだって? 親に絶大な影響力があると認めることが、私の誇りだって? 私の言語能力や溢れるような感性を親に奪い取られなかったことが、私の誇りだって? 冗談じゃない!」

あなたがアダルトチルドレンの一人であるかどうか、ということと、あなたの人生の目的、あなたの召命がアダルトチルドレンであることなのかどうか、ということを混同してはならない。
あなたの魂にとって、アダルトチルドレンであることは、誇りではない。
魂が誇りに思うことは、自分が何かのカテゴリーにくくられるかどうか、ということとは、いっさい関係ない。

少なくとも、私の誇りは、機能不全家族という状況をうまくサバイバルできた、という誇りではない。アダルトチルドレンという概念に絡めとられずに済んだ、つまり概念そのものからうまくサバイバルできた、という誇りである。
私は、概念そのものを、まんまと出し抜いてやったのだ。私の存在は、私の魂は、学問的概念をはるかに超える何かである。遺伝子であろうと、宗教の教義であろうと、「神」の摂理であろうと、「私」を超えるものではない。
それこそが、「私」という存在の誇りなのだ。

■まとめ1:どんぐりの言葉で語り直せ

アダルトチルドレンという概念は、他の一般的に普及している心理学的な概念同様、個人の物語を集団の物語にくくろうとする。かけがえのない自分自身の人生の物語を、親の物語、あるいは単なる一被害者の物語、集団(群れ)の物語にすり替え、無力感、無価値感を受け入れさせようとするのだ。

それは、個性ではなく典型で人を見ることにほかならない。あなたは、好き勝手に、傍若無人に振る舞う親におびえ、振り回され、隅に追いやられ、表情をなくし、語る言葉を失っているような、親を主役とした物語の脇役ではないのだ。人生という舞台の主役はあなた自身なのだ。

この親は、この状況は、外からの力によって宿命のようにして与えられた(背負わされた)ものではなく、私自身が私自身の人生を生きるために、私の魂が自ら選び取ったものである。そのことに気づくためには、ディテールが必要だ。共通概念でくくってしまっては、ディテールは何も見えてこない。
しかしディテールにこそ、どんぐりのもつパターン(かたち)が宿っているはずなのだ。ディテールの介入を阻むものを許してはならない。イデオロギー的カテゴライズによって闇に葬られようとしているあなた自身のかけがえのない「固有財産」を掘り起こすのだ。

たいていの人間は、過去の自分の物語を塗り替えることはできないと考えるが、それは間違いだ。この考えは、「今起こっていることは、次に起こることに決定的な影響を与える」という因果論へと人を導く。
しかし、起こってしまったことをやり直すことはできなくても、それを読み替え、語り直すことはいくらでもできる。「現在が過去と未来の両方に手をかけている」という状況は、この読み替え・語り直し作業によってもたらされる。それができる・できないは、ただ語り直す言葉をもっているか・もっていないかの違いだけだろう。
アダルトチルドレン概念は、何を実現するか、実人生に何を結実させるかを語る言葉をもたらしてはくれない。

同じ出来事でも、視点を変えれば、まったく違う面が見えてくることはよくある。どんな視点でか。もちろんあなたの魂のイメージ(かたち)という視点だ。どんぐりの言葉で語るのだ。
このような親をもってしまったことを恨んだり仕方ないと思うのではなく、魂がくじを引き、自ら選んだ人生をこの世で成就させるために、なぜかくも不出来な親が必要だったのかを考えよう。

確かに日々起こる出来事は複雑な因果の糸が絡み合っているようで、とらえどころがない。しかし幸いなことに、人間には想像力(イマジネーション)がある。とらえどころがないものを見るとき、人は想像力の力を借りることができる。

フランスの哲学者ガストン・バシュラールは言った。

●「想像力とは、知覚によって提供されたイメージを歪形する能力であり、それはわけても基本的イメージからわれわれを解放し、イメージを変える能力なのだ」(「空と夢」法政大学出版局より)





アダルトチルドレンたちよ、想像力を働かせ、あらゆる既存の概念がもたらすイメージを歪形し、そこから解放されよ!
「概念」という鎖につながれていることを繰り返し思い知らされているメス狼を解放できるのは、想像力以外にはあり得ない。

リビドーもトラウマも発達論も、何か足りないように感じさせる。自分史を語る上で、何か重要なものが欠けているように感じさせるのだ。自分には、性的衝動や過去のつらい体験やグロウ・アップの概念だけでは説明し切れない何かがある。

理解できる心理学よりも感じる心理学が必要なのだ。感じる心理学よりも気づく心理学が必要なのだ。解釈は確かに理解を促す。「それは心理学的にはこう解釈できる」と理路整然と説明されれば、確かに納得することはできる。しかしそれでも自分のすべてを語り尽くしていないと感じる。
「それではもっと感じてみよう。体で感じ、心の声を聞いてみよう」とセラピストは言う。確かに感じる。心も何か言っているようだ。さて、それからどうすればいいのか。それで結局私は何のために生まれてきたのか。私がほしいのは「How(いかに)」ではない。「What(何が、何を)」と「Why(なぜ、何のために)」なのだ。それを語る言葉は、誰かの言葉ではなく、「私」の言葉でしかない。

あなたが体験したことを心理学的に定義するなら、それは「虐待」という二文字になるかもしれない。しかしそのときあなたが実際に体験したこと、目の当たりにしたこと、直感的に感じたこと、そしてそこから受け取るメッセージは、断じて心理学的な概念などではない。

たとえ記憶の中から親を抹殺したとしても、魂が体験した重要な「かたち」まで抹殺してはならない。「救済」が必要なのは、アダルトチルドレンではなく出来事の方なのだ。

アダルトチルドレンよ、
あなたの人生は、専門家たちが書斎の中で毎日でっち上げ続けている新種の概念に拍手を送り、自分もそれに当てはまることを自己申告するためにあるのではない。
あなたの人生をうまく表現しているように思える新種の概念の登場は、あなたの人生物語の1ページに書かれたエピソードのひとつかもしれないが、それは本筋とはほとんど関係ない、ちょっとしたこぼれ話程度のものなのだ。
アダルトチルドレンという概念は、あなたの存在を、あるいはあなたのアイデンティティを脅かす具体的な事態から一時退避するシェルターとして機能するかもしれないが、シェルターがあなたの「終の棲家」ではない。

くり返そう。
「両親幻想」からの解放とは、両親から受けた影響からの解放ではなく、両親から影響を受けたという考えからの解放なのだ。

■まとめ2:すべてのアダルトチルドレンたちへ

以下の文章は、アダルトチルドレンの一人として、すべてのアダルトチルドレンに贈る私からのエールである。すべてのアダルトチルドレンが、血のつながりや成育環境がすべてではないと考えるようになり、「両親の力」という幻想から解放され、ついでに、両親幻想の落とし子である「アダルトチルドレン」の幻想からも解放され、影響される必要のない、敬うに値しない親をもったことを恨むのではなく、そのことに親のではなく自分の物語としての、かけがえのない自伝的な意味を与え、自分が生まれてきた意義と目的に目覚めることを、私は願ってやまない。

まず、レバノンの詩人カリール・ジブランに倣って言おう。

アダルトチルドレンたちよ、
あなたは親を通って、この世にやってきた。
親はトンネルにすぎない。
あなたは親の所有物ではない。
親には親の運命があるように、あなたにはあなたの運命がある。
あなたの体は親の家に住んだ(住んでいる)が、あなたの魂は明日の家に住んでいて、親は夢のなかにでも、そこには立ち入れない。
(参考:「預言者」)




最後に、アダルトチルドレンを標榜するあなたに、次の詩を贈ろう。

はっきり言っておこう。
私は「アダルトチルドレン」である。
これは私に与えられた一種の「称号」である。
私の親に与えられたものではなく、私の親や指導者や医者から与えられたものですらない。
私はこの「称号」が自分に付随することを許すが、私はこの「称号」ではない。
私自身の「一側面」を表す「称号」と、私自身を同一視したりしない。
私にとって、この「称号」は、何ら自慢できるものではない。
はっきり言って、どうでもいい。

自分の名誉のために言っておくが、私はいかなる概念の犠牲者でも被害者でもない。
自分の親の名誉のために言っておくが、「加害者」という役回りは、
私の人生舞台のいかなる配役にも、ふさわしい呼称ではない。
私の人生シナリオに、いかなる加害者も被害者も存在しない。
それは、私が今まで誰も傷つけなかった、誰からも傷つけられなかった、という意味ではない。

私はときに誰かに何かのレッテルを貼る。
私はときに誰かから何かのレッテルを貼られる。
それでも私はこう言うことができる、
たとえ誰が何をしようが、たとえ世の中がどうであろうが、
私の魂は、誰からも、何事からも、いまだかつて一度たりとも傷つけられたためしはない。

私の肉体は傷つく。私の心は疲弊する。
しかし、私の魂は無傷だ。
生まれたときのままの状態だ。
私の魂は不変だ。
私の魂は成長も退行もしない。
私の魂は、いまだかつて子どもだったためしはない。

もちろん、私は多くのことを学び、そのたびに人間的に成長し、賢くなってきた。
しかし、私の魂は不変だ。
私は、移ろうものに興味はない。
私は、移ろうものの陰で、変わらないものにしか興味がない。

アダルトチルドレンたちよ
「アダルトチルドレン」という看板を掲げた放牧場の羊たちよ
その放牧場の烙印を押された家畜たちよ
その烙印はお前たちの体をうずかせ、お前たちの心を縛っているかもしれない
しかしお前たちの魂は無傷だ
魂は誰にも傷つけることはできない
たとえお前たちの心と体が滅んだとしても

アダルトチルドレンたちよ
「アダルトチルドレン」という看板を掲げた放牧場の羊たちよ
その目に見えない囲いから、自分たちの魂をさっさと解放しなさい
難しいことではない
自分から入った放牧場なのだから、ただ自分から出ればいい

お前たちは行き場を失い、路頭に迷うかもしれない
しかし気づいてほしい
お前たちを支えている足は誰の足かに
お前たちの畑を耕す手は誰の手かに
お前たちの雇い主である頭は誰の頭かに
放牧場はただ役目を終えたにすぎない

やがてお前たちは長い旅に出るかもしれない
自分自身を探す旅、自分の幸福を探す旅
しかしやがてお前たちは気づくに違いない
「青い鳥」は我が家にいたのではなく
自分はいまだかつて一度も「青い鳥」とはぐれたためしはなかったことに
そのときはじめてお前たちは知るに違いない
すべては自分の魂の選択だったことに

あらゆる魂は、自ら選んでいるのだ
生まれてくる親と場所と時代を






posted by AK at 11:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 論考

2019年07月18日

アダルトチルドレン徹底批判(その2)

前回は、アダルトチルドレンという概念が抱える根本的な問題点について、その全体像を俯瞰したが、今回は、まず「自分もアダルトチルドレンの一人である」という自覚をもつ私自身の話から始めよう。

■私もアダルトチルドレンの一人だ

1990年代初頭、まさに日本に「アダルトチルドレン・ブーム」が巻き起こったとき、私もその手の本を随分読んだ。
読んだ感想は、「まさに私もアダルトチルドレンの一人ではないか」ということだった。
しかし、アダルトチルドレン概念そのものに対する私の印象は、正直に言うと「この言説は正しい。しかしどこか物足りない」というものだった。
「ある人間の自伝的背景や心的傾向を見事に分析している言葉だとは思うのだが、すべてを語ってくれているとはどうしても思えない。実はいちばん肝心な部分を語ることを巧妙に避けている」と思えて仕方がなかったのだ。

それは、大学で心理学の講義を受講したときに感じたものと同種の印象だった。
あのときもやはり、人の心の中心部分をダイレクトに語ることを巧妙に避けて、周辺部分をうろうろしている印象を抱いたものだった。

このような概念を提示されれば、確かに私はアダルトチルドレンだ。その認識からスタートすることに何ら異存はない。しかし、そこから先どこへ向かえばいいのか。
「グリーフワーク」だって?
あまりに人をバカにしている。子ども騙しもいいところだ。
「自分の親が原因で、自分は生きづらさを感じている。しかし親は変えられないし、自分がその親の子どもである事実も変えられない。変えられないなら、それを受け容れるために、とりあえず誰かと一緒に自分の不運を嘆こう」という気にはとてもなれなかったのだ。

「受け入れているに決まっているではないか。誰も何も拒否してなどいない。そこが問題の本質ではないのだ。」
私はそのことをわかっていた。
親のことに、親が抱える問題も含め、目をそらさずにしっかりと向き合い、その場に踏みとどまっていた。しかし、私が抱えるやりきれなさは、また別の問題だ。それとこれとは違う。私が抱える問題は、他人が抱える問題の「派生物」ではない。私の存在は、誰かの抑圧の道具などではない。私は何からも逃げていない。そう、アダルトチルドレンという概念からさえも。
しかし、概念はひとつの認識を与えてくれるだけだった。私は、何が起きているのか、これにどんな意味があるのか、真実を知りたかっただけだ。しかし、いかなる概念も答えをもたらしてはくれなかった。そう、哲学さえも。私は、目の前に展開されている現象以上の何かを求めていたのかもしれない。いたずらに、もっともらしい説明を加えるだけのものではない何かを。

もちろん私は、いかなるカウンセリングにもグループワークにも出向いたことはない。
そんなことで、何も解決しないだろうことは、容易に想像がついたからだ。
「自分の生きづらさ、息苦しさを、とりあえず親のせいにしておけば、ネガティブな状況から脱することができる」などと、どうしたら期待できるだろう。
そんなやり方では、かゆいところに手が届かないもどかしさを味わうのが落ちだろう。「そこではない。届いてほしいのはもっと奥の方だ」という心のつぶやきが聞こえてくるような気がした。
それでも、その頃の私はまだ「親の影響力」という神話を、どこかで信じていたのかもしれない。

■私の自己認識を変えた夢

その頃私はすでに師匠について夢の学びを深めていた。
そんなとき、生涯忘れることのできない人生のターニングポイントとなるような夢をみた。
その内容については詳しく書かないが、その夢の意味するところは歴然としていた。
私は、「アダルトチルドレン」という「鎖」を手にして以来、親との関係において、自分を卑下し、自己信頼を喪失し、自分の人生に前向きに取り組むという方向へなかなか向かえずにいたわけだが、そんな自分を、「いい年をして、精神的引きこもり状態だ」と思い込んでいた。
つまり私は、状況自体にやられているのではなく、「親の影響力」という概念にやられかけていたのだ。

しかしその夢は、自分の思考傾向や行動パターンに、まったく異なる意味づけを与えてくれた。
私は、確かに親から影響を受けているが、それは自分にそう許した部分だけである。私は親のどの部分の影響を許し、どの部分はシールドを張ってブロックするかを、無意識のうちに自分で選んでいたのだ。
私の本質的な部分、私の「魂」と呼べるような部分は、まったくの無傷だ。滅多な人間の影響など受けてはいない。影響を受けているとしたら、私が自らそう望んだ人間からだけである。親もその例外ではない。
私は自らの魂を「外圧」から見事に守り抜いたのだ。
その夢は、私にそう信じさせるに足る「何か」を与えてくれた。
これは、私にとってまさに「コペルニクス的転回」に相当するものだった。地球の周りを太陽が回っていると思い込んでいた信念が、太陽の周りを地球が回っている、という認識に転換されたのである。

■「座右の書」との出会い

そして、この夢にすかさず二の矢を放つような出来事が起きた。
私は、自分の生涯の「座右の書」と呼べるような書物と出会ったのだ。

その頃私は、ある会社に出向する仕事のため、電車通勤をしていた。いくつかの路線を乗り継ぐ都合上、ある駅とある駅の区間を少し歩く。その途中に小さな書店があった。
あるとき、乗り継ぎにかなりの時間的余裕があったため、時間つぶしのために、その書店にブラっと立ち寄った。
本に関しては、古書店で買うのを習慣にしていた私は、通常の書店で本を買うことはほとんどなかったため、そのときも単なる時間つぶしのひやかしのつもりだったが、ある書棚(たぶん、新刊本のコーナー)に目が行ったとき、私の視線は、ある本の背表紙に釘付けになった。
そのタイトルに惹かれたのか。そうではない。色やデザインだったか。それも違う。
とにかく私には、その背表紙が光り輝き、棚から少し浮き出て見えたのだ。「さあ、早く私を手に取りなさい」と言わんばかりに。
確かに私は、あるテーマを抱いて、それに見合う文献を探すべく、図書館なり古書店なりに入れば、必ずうってつけの書物を探し出す、という自信があった。それは書物に対する「嗅覚」のようなものだ。私には匂うのだ。
しかしその本は、匂いではなく、明らかに視覚的な目立ち方だった。こんなことは後にも先にも初めての経験だった。
私は運命の感覚に背中を押されて、その本を定価で購入した。「今この場で買わなければ」と思ったのだ。後になって古書店で同じ本を探せばいい、という発想にはとてもなれなかったのである。この空き時間、あるいは電車に乗っている時間を利用して、今すぐ読むべき本である、という直観が働いたのだ。
そして、読み始めたら、とたんにハマった。まさに「我が意を得たり」とばかり、私はハタと膝を打ったのである。
それは、ジェイムズ・ヒルマンの「魂のコード」という本である。




この本が私にもたらしたもっとも顕著な「変革」はおそらく、私にしか読み取ることのできない私の魂が担う「運命」の感覚とも呼ぶべきものだろう。
私は、夢のメッセージによって、受けたくない影響から自分自身を守っていたことに気づかされたが、受けたくない影響からただ自分をブロックしているだけでは、それは相変わらず他人の影響力の強さを認めているにすぎない。
影響をブロックしている間に、自分が何に時間を費やしたか、の方が重要なのだ。
私は、自分が精神的引きこもり状態のときに何をしたのか、その時間は自分に何をもたらしたのかに注意を向けた。
そこに切り拓かれたのは「作家への道」だった。
私は、他人の影響から自分をブロックしながら、密かに作家になる準備をしていたことに気づいた。
その間に読んだ本、考えたこと、書き散らした文章、鍛えていた知的体力・・・それらのすべてが、「作家への道」を物語っていると感じたのだ。
もちろんこれは、私にしか感じ取れない私自身の「幻想的自己イメージ」である。しかし、この「幻想(ファンタジー)」こそが重要であることを、ジェイムズ・ヒルマンは教えてくれたのだ。

今振り返って、確実に言えることがある。
もしあのときあの夢をみていなかったら、そしてもしジェイムズ・ヒルマンに出会っていなかったら、私は相変わらず「アダルトチルドレン」という迷路の中で、出口を見出せずにもがいていただろう。

■どんぐり理論とは何か?

世界のユング派を代表する最も影響力の大きい心理学者であり、「元型的心理学」の創始者でもあるジェイムズ・ヒルマンは、その著書「魂のコード」のなかで、「どんぐり理論」を展開してみせる。

(※)●「」(H)の部分はすべてジェイムズ・ヒルマンの「魂のコード」からの引用。

人間は、それぞれの運命、生き方のイメージのようなものがコード(暗号、記号)として書き込まれた魂の器ないしは計画書のようなものをもっている、とヒルマンは考える。彼はこれを「どんぐり」と名づけている。

たとえば、樫の木のどんぐりが樫の木になるべきすべてのエッセンスを内包しているように、人間のどんぐりも、その人をその人たらしめている(あるいはやがてそのようになるであろう)すべての要素を内包しているというわけだ。
ただし、どんぐりとは従来の心理学がエゴ(自我)と呼ぶものとはまったく異なる。

私もそうなのだが、ヒルマンも、人間をこのように考えているようだ。

人間=心+体+魂

●「運命の声が書き込まれた、一粒のどんぐりが人にはあるのだと想像してみよう。
 人は本当の伝記を、つまり、どんぐりの中に書き込まれた運命を奪われてしまったのだと、わたしは強く思う。わたしたちがセラピーに行くのは、それを見いだすためだ」(H)


どんぐりの中に書き込まれた一人一人の運命、魂の計画は、その実現が難しい世の中に私たちは住んでいる、とヒルマンは考えているようだ。

●「宿命が引き起こす衝動は、周囲の環境の無理解や誤解によって抑えられてしまい、その結果無数の症状を引き起こすことがよくある。気難しさ、自己破壊衝動、事故を引き起こす傾向、あるいは『過敏(ハイパー)』な子どもたち、というかたちの症状だ。しかし、これらの言葉はすべて、自分の無理解を隠そうとする大人たちが発明したものである。どんぐり理論は、子どもたちの逸脱(ディスオーダー)に対して、まったく新しい理解の仕方を提供する。この理論は、原因よりも召命(※)を、過去の影響よりも直感的な啓示の方を重大なものとして扱うのである」(H)


(※)私はこの「召命」という言葉が好きだ。
「召命(コール)」という言葉の姉妹語は「運命(フェイト)」や「宿命(デスティニー)」という言葉だが、これらの言葉には、私たちのあずかり知らないところで私たちを動かす「神の摂理」とか、私たちをマリオネットのように未来から操る「あらかじめ決められていたシナリオ」といったイメージがつきまとう。
これに対して「召命」という言葉には、私たちを名指しで訪れる「呼び声(コール)」という意味合いがある。メガホンのように両手を口元にかざし、はっきりと私たち一人一人に向けて発せられる守護霊からのささやき。セイレーンの歌声のように、それに耳をふさぐことも、そこから目をそむけることもできない抗いがたい誘惑。自分は物事に熱中するタイプではなかったはずなのに、それでも私たちを駆り立てずにはおかない内なる衝動。それが「召命」だろう。

私がどのような扉を叩こうが開かれなかったものこそが、私の息苦しさの正体だったのだ。
これは、アラン・ワッツが社会的な「タブー」と呼んだことに相違ないのだが、もし、本当に知りたいと思うことが、巧妙に避けて通られ、隠蔽されているという感覚を拭えずにいたら、疑心暗鬼になり、年中イライラし、自暴自棄になっても仕方がないのではないか。
私のそのときの心の状態はそれだったのかもしれない。これは年齢や人生経験にはいっさい関係ない。

アラン・ワッツが開示して見せようとする、社会的な「極秘事項」。
「伝統的な宗教や哲学をたどっていてはけっしてほんとうには明かされない何か」。
「政治的・道徳的な意味でというより、私たちの通常のものの見方や常識を根底からくつがえすという意味で」、危険すぎると考えられてきた「内的変革」。
だからこそ「タブーのうちのタブー」とみなされてきた真実。
ワッツがポール・ティリヒの用語を借りて呼ぶところの「存在の究極の基盤」。
言い換えれば「最も内奥の<自己>」。(参考:「タブーの書」めるくまーる)
これこそが隠されてきたものの正体なのだが、もちろんそのときの私には、「それ」に気づきようもなかった。ただ、重要な「何か」が隠蔽されている、という感覚があるだけだった。
いずれ「それ」については、じっくり取り組むとして、今は「どんぐり」に集中しよう。

「タブーの書」改訂版「「ラットレース」から抜け出す方法」


私たちには、重要な真実の代わりに、まったく別の概念が手渡されている、という認識で、とりあえずは充分だろう。
どうやら、子どもたちが何らかの機能不全を起こしたとき、彼ら・彼女らはその原因を乗り越える前に、親や周りの大人たち(専門家も含め)が押しつけてくる「概念」と戦わなければならないらしい。

私はつねづね眉唾だと思っていたが、子どもの「反抗期」などというものも、大人が大事なものから目をそむけていられるよう勝手に捏造した「概念」にすぎないようだ。
反抗期とは、子どもが自分のどんぐりに気づいてもらえずイライラして、やむなく周りの大人たちに発してくるシグナルなのだ。
だから大人たちは子どもが反抗期から抜けるとホッとするが、それは単に子どものどんぐりが抑圧されたにすぎない。
どんぐりを抑圧すると、その子どもの「守護霊」を完全に怒らせる結果となる。

ヒルマンは、その子ども本人と、その子の魂を守護するためについている「不可視の非人間」であるダイモーン(守護霊)とを同一視してはいけない、と警告する。

●「ダイモーン(守護霊)は子供ではない。またインナー・チャイルドですらない。・・実際、ダイモーンは幼い子供の体の中に宿っている魂、つまりこの完全なヴィジョンと、未熟な人間とを混同することを絶対に許さないだろう」(H)

●「ダイモーンは、威厳をもたねばならないのだ。ダイモーンを見下してはならない。子供はダイモーンの威厳を守ろうとするものだ。『いたいけな』年頃のか弱い子供が、不公平やウソに対して抗い、自分を貶める誤解には荒々しい反応を見せるのは、そのためだ。子供に対する虐待ということで言えば、その定義を性的なもの以外の領域にまで広げなければならないだろう。子供の虐待は、性的なものだから悪いのではない。人格の核にあたる尊厳、つまりどんぐりの神話に対する虐待だからこそいけないのだ」(H)

●「あらゆるセラピーの学派は声を揃えて、個人を形成している鍵は抑圧だという。しかし、抑圧されているのは過去ではなく、どんぐりであり、またわたしたち自身ときちんとつながることができていない過去の失敗たちなのだ」(H)


私たちが過去に犯した失敗や辛い出来事などが抑圧されてしまうのは、つまり「本当は起こってほしくなかった、できればなかったことにしたい」と私たちが思ってしまうのは、そうした事象と、私たちのどんぐりが宿している青写真、あるいは計画のようなものとが、うまくつながれていないからだ、とヒルマンは言うわけだ。

どんぐりの計画を困難にしているものは、実は私たちの世界に深く根を下ろしている、心理学が作り出した幻想、一種のイデオロギーなのだ、とヒルマンは説き、そのイデオロギーの解体をもくろむ。

■両親の影響というイデオロギー

ここで、私たちは二十世紀が生んだ大いなる科学的幻想に立ち向かうことになる。
『利己的な遺伝子』の著者として名声を馳せたイギリスの生物学者リチャード・ドーキンスによれば、すべての生き物は、遺伝子が生存競争に生き残り、自らの複製(コピー)を増やすという利己的な戦略(「自己複製プログラム」)のために創り出した精巧な乗り物(伝達手段)にすぎないことになる。もちろん人間も例外ではない。

ドーキンスに代表されるような極端な還元主義は、心理学の分野でも幅をきかせているように見える。心理学の世界の還元主義は、私たちの精神も肉体もすべての起源は両親にあるという極端な因果論を唱え、両親に絶大な影響力を与えているようだ。それは単なる幻想であり、明らかに一種の信仰体系(イデオロギー)を形成している、とヒルマンは厳しく糾弾する。

●「両親の影響力とは、実は両親に影響力があるという考え自体の影響力なのだ」(H)

●「わたしたちは、理論を実践する前から理論そのものによって犠牲になっているのだ」(H)


そのいわば「両親中心主義」のイデオロギーから、「トラウマ」理論や「グレート・マザー」の概念などが派生してきている、とヒルマンは考えているようだ。

●「現代の理論は、トラウマと取り組むべきなのだとさかんに思わせようとする。しかし、たとえ幼い頃に傷つけられたとしても、またどのような不運に石打たれ、矢で傷つけられることがあっても、わたしたちの中にははじめから、くっきりした個人の性格(キャラクター)のかたち(イメージ)が存在していて、それは消えることはないのだ」(H)

●「危険が迫っているときには母親へと逃げ込むことは珍しいことではないが、しかし、だからといって精神分析的な『科学』もまた母親のスカートの中に逃げ込まねばならないのだろうか」(H)


イデオロギーと化した心理学が苦し紛れに作り出した幻想によって、「人が人を傷つけたり攻撃したりするのは、その人が過去に受けた心の傷のせいなのだ」とする「トラウマ」理論や、「子どもをやさしく抱きしめるのも、絞め殺すのも、母性のなせる業である」とする「グレート・マザー」概念が正当化されている、とヒルマンは考えているようだ。

家族(特に親)の心ない振る舞いによって、たとえ心や体が傷ついたとしても、あなたの魂は傷ついたりはしない。どんなにつらい過去を経験しても、あなたの魂は無傷だ。むしろ自分の「どんぐり」の召命に耳をふさいでいると、魂から手厳しいしっぺ返しがあるかもしれない。

●「わたしたちは、宿命が要求していることに直面せず、両親をだしに使って逃げているのだ」(H)


ドーキンスにとって、人間が利己的な遺伝子の乗り物だとするなら、ヒルマンにとって、人間は魂の乗り物ということになるだろう。ドーキンスは人間の行動を語る上で存在を遺伝子レベルにまで解体したが、解体すべきは還元論や因果論の幻想だろう。ヒルマンはそれを、神話の体系を借り、「生きられる心理学」の構築、「生きられる世界」の復権によって実現しようとしている。

●「神話は救済という心理学的な役割をもっている。そしてそこから生まれ出る心理学は、この神話によって立つ人生にインスピレーションを与えることができるのだ」(H)


ここで注意しなければならないことがある。
神話は個人の救済に大いに貢献するが、集団の文化に神話が持ち込まれると、つまり「制度」というメカニズムを獲得してしまうと、とたんにその集団自体が神話的な世界観の時代に退行してしまう危険性が発生する。アダルトチルドレン概念を「群れ」に持ち込む危険性はそこにある。
神話は、あくまで個人レベルで扱われるべきである。あなたのどんぐり神話はあなたにだけ通用するものであり、あなたの召命はあなたの耳にだけ聞こえる声であり、あなたの守護霊は、他のいかなる「群れ」も守ってはいない。
つまり、どんぐり理論は、集団の共有物にすり替えられてしまった個人の財産を、再び個人に取り戻させる働きをもっている。

●「個人の宿命への召命は、決して無信仰の化学か非科学的な信仰か、といった問題ではない。独自性(インディヴィジュアリティ)はやはり心理学(サイコロジー)の問題・・それは、接頭辞である『サイキ』を対象にし、魂を前提とする心理学の問題なのだ。そうすれば心(マインド)は宗教という制度がなくとも信仰をもち続けることができるし、制度化された科学がなくとも現象を注意深く観察することができる。どんぐり理論は、この二つの古いドグマ、時代を通じて互いにいがみ合ってきた、そして西洋の精神が溺愛してきた二つのドグマの中間に、巧みに入り込んでいくのである」(H)


科学的なパラダイムと宗教的なパラダイムという「二つの古いドグマ」は、西洋的精神のなかで、互いにいがみ合うと同時に、どちらも無批判に受け入れられてきた。つまり対立しながら両立してきたことを、ヒルマンは見抜き、そのうえで、それらのドグマの中間に巧みに入り込むものとして「どんぐり理論」を位置づけているわけだ。

■両親のファンタジーと子どもの自立

両親中心主義を信奉する親、つまり子どもに及ぼす親の影響力は絶対的なものであると信じる親は、「私がいてこそ、お前がいる」という具合に、子どもに対して創造主ないし権力者のように振る舞うかたわら、自分は「いい親」をやれているだろうか、子どもに悪い影響を与えていないだろうかとばかり、年中おびえてもいる。
そうした親の心境に「トラウマ」「ダブルバインド」「アダルトチルドレン」などの心理学的概念が追い打ちをかける。その結果生まれるものを、ヒルマンは親の「ほとんど避けられない自己言及的ナルシシズム」と呼ぶ。
このナルシシズムに浸りきっている親は、肯定的にとらえるにしろ否定的にとらえるにしろ、自分こそ子どもに影響を与え、教育をほどこすべき唯一の存在と考えているわけだが、そのとき親は当の子どもを見ているのではなく、「子ども」という心理学的な概念を見ているにすぎない。

ところが、子どもの方はむしろ親以外のものから大きな影響を受ける。
教育にしても、もともとは親以外の人間の仕事だった。親は子どもを生物学的あるいは社会学的な意味で世話するのに手いっぱいで、教育にまで手が回らないのが普通である。だからこそ教師という仕事がある。昔から教育は「外注」されてきたのだ。

ごく稀なケースとして、親であることと教師(指導者)であることを兼ねる親がいることを、ヒルマンは具体例を挙げながら紹介しているが、その場合も、親は場面ごとに「親役」と「教師役」を使い分けているようだ。そのような高度な技が功を奏するのは、その親のどんぐりのかたちがそれに見合うものであり、なおかつそれが子どものどんぐりの計画と一致している場合だけだろう。

教師と生徒、師匠と弟子は、肉欲をともなわない一種の恋愛感情、プラトン的な意味でのファンタジーによって結びついている、とヒルマンは分析する。

●「物事への見方を変えるためには、恋に落ちることが必要だ。恋に落ちたときには同じものが違って見えてくる。見方を変えることは恋するときと同じように救いをもたらす」(H)


生活費を稼がなければならず、家庭を維持しなければならず、子どもの食欲を満たし、下の世話をやき、身なりを整えさせなければならないうえに、自分の人生も生きなければならない親は、想像力(イマジネーション)を介して子どもと結びつきにくいのかもしれない。

●「わたしたちが犯す最も大きな過ちは、両親に師としてのヴィジョンや厳しい教育を期待すること、また師が安全な新しい家や人間らしい生活を与えてくれると期待することだ」(H)


それでは、親は子どもに対して何のファンタジーも抱かず、期待も希望も持たない方がいいかというと、そうではない。
いずれにしろ黙っていても、親というものは子どもに対して何らかのファンタジーを抱く。「こんな子どもであってほしい」「将来こんな人間になってほしい」「私とこんな関係でいてほしい」などなど・・・。

子どもがそのファンタジーを見抜き、それがあまりにも自分のファンタジー(どんぐりのかたち)とかけ離れていると気づいたとき、子どもの自立が起きる、とヒルマンは考える。
実際に私の場合も、自分が抱くファンタジーと親が抱くファンタジーがまったく別ものだと気づいたときに、真の自立が起きた。その「自立」とは、経済面や生活面の自立とはいっさい関係ない。そのときに私に起きた自立とは、いわば「両親幻想」からの脱却という意味をもつだろう。

どうやら、親子関係においても師弟関係においても、想像力が重要なカギを握っていることには間違いなさそうだ。

●「恋、友情、家族関係の失敗は、しばしば、想像力に満ちた知覚(イマジナティブ・パーセプション)を用いないことからくる。心の目で見ないとき、愛はまさに盲目となる。そんなときには、想像的な真実であるどんぐりの担い手として、相手を見ることができていないのだから。感情はそこにあるだろうが、何も見えてはいないのだ。ヴィジョンが曇れば、共感や相手への関心も曇ってしまう。ただ、気分を害されて診断を下したり類型論に逃げ込んでしまう」(H)


■あなたの運命は両親(過去)の計画?

あえてこう言い切るが、この世に生じるあらゆる現象には意味がある。偶然に起こったように見えても、そこには何らかの必然が関与していて、ただ私たちにはそれが見えていない、あるいは見ないようにしているだけなのだ。理由のないことは起こらない。

たとえば、あなたがふとした拍子に包丁で指を切ったとしよう。それはもちろん意図したことではなく、たまたま偶然の出来事だと考える。たいていの人間がそう考えるはずだ。ところが、特殊な血液の病気でもない限り、やがてその傷がふさがり、かさぶたができ、組織が再生するということを偶然だと考える人間はいない。
つまり、指を刃物で切るという現象と、切り傷が治るという現象と、どちらも日常的に起こり得る現象なのに、一方は偶然の出来事であり、もう一方は必然的な現象であると見なしていることになる。これが一貫した知的態度と言えるだろうか。

ここで、「プラトンが語る魂の再生神話」を思い出していただきたい。
自分の運命を顧みる試みは、現在という視点から、過去を媒体として未来を透かし見る試みだったはずだ。つまり「過去→現在→未来」ではなく「現在→過去→未来」なのだ。

●「時間より非時間性を重視し、人生を過去からの順繰りばかりでなく、後ろ向きにも眺めることにしよう。
 人生を逆向きに読むと、幼い頃に熱中していたことが、いかに大きく現在の行動を先取りしていたかがわかる。大人になってからでは幼い頃できたことができないこともしばしばある。逆向きに人生を見ると、『成長』などは『かたち(フォーム)』に比べれば重要な人生上の鍵ではないことがわかる。発達などというものは、もともとのかたち(イメージ)の一面が現れるときに初めて意味をなす」(H)


「過去の自分は未熟であり、成長・発達すべき子どもだった」と見るなら、その観念も、「子どもを教育し、指導すべき親」という神話に力を注ぐ結果になるかもしれない。
しかし、あなたのどんぐりのかたち、そこに書き込まれた計画という視点で、あなたの人生を眺めるなら、「過去→現在→未来」という具合に不可逆的に流れる時間性は、いったん保留になるだろう。
あなたが、自分の召命に気づき、そのささやくところに従って生き始めたら、「何だ、これはかつての自分が何かに夢中になっていたときの感覚そのものではないか」という「既視感」を抱くかもしれない。「私は、あの頃から何も変わっていないのだ」
逆に「あの頃できたはずのものが、今はできない。私は堕落した」と、あなたは嘆くかもしれない。
いずれにしろ、あなたは現在の視点から過去の自分をながめることによって「真実の自分」に気づき、その感覚こそが未来のあなたを作るのだ。
これを親に期待することは無理だ。

つまり、アダルトチルドレンであるあなたが、自分のどんぐりの召命に耳を傾けることを怠り、家族(特に両親)にこだわり、過去の出来事にこだわり、運命に翻弄されるばかりなら、あなたは相変わらず両親神話に力を与え、過去が未来を押し進めるとする因果論、決定論に加担しているだけになる。

●「(子どもが親に)期待すべきものを誤ると、ここで『アダルト・チルドレン』の、典型的な恨みが生まれてくる。彼らは、自分の両親が自分ときちんとかかわらなかったとか、本当の自分を見てくれなかったと嘆くのである」(H)


しかし、子どものどんぐりを見抜くことは、親の召命だろうか?
あなたは、あなたの運命は、親のどんぐりに書き込まれた計画の一部だろうか?

■「私」とは両親の遺伝の産物か?

そもそも両親とは何者なのだろう。
遺伝学は、「私たちの遺伝子の源だ」と言う。
「蛙の子は蛙」・・・父親も母親も蛙ならば、その子どもも蛙でしかない。遺伝学は蛙に個性があるとは言ってくれない。
私たちの遺伝子の半分は父親の遺伝子からのコピーであり、もう半分は母親の遺伝子からのコピーだという。しかし遺伝学は、父親と母親の遺伝子のどの半分を自分は受け継いだのかまでは語ってくれない。それは運命、あるいは偶然の産物であるとしか言わないのだ。
両親が出会った瞬間に、二人の卵子と精子が出会った瞬間に、私たちの運命は決まると、そして二人の性格や関係性が私たちの性格を決定すると、決定論者は言う。私たちは両親の家系図の枝葉の一つにすぎないと、そして私たちを取り囲む文化の申し子でしかないのだと。

(※)すでに述べたが、実は最新の遺伝子研究によると、子どもは両親の遺伝子を半分ずつ受け継ぐだけでなく、誰からの遺伝でもない(いわば突然変異を司る?)独自の遺伝子を必ず特定の個数もって生まれてくるという。

●「現代の文化を強くとらえて離さない幻想があるとしたら、それはわたしたちは両親の子どもであり、母親と父親の行動こそが運命の第一の道具であるという考えであろう。両親の染色体が、わたしたちの染色体となるように、両親の欠点、両親のあり方はわたしたちのものとなる。二人の無意識・・抑圧された怒り、満たされなかった望み、夜の夢など・・が、わたしたちの魂を作り上げている。そこから逃げ出すことはできないし、この決定論からは自由にはなれない。個人の魂は、家系に由来する生物学的な産物であると想像され続けている。肉体が生物学的に両親の肉体から生まれ出てくるように、わたしたちの心は両親の心から成長してきたのである」(H)

●「しかし、その一方で小さな小人が別の考えをささやいている。『おまえは違う。おまえは家族のほかのみんなとは違う。おまえは、本当は家族の一員ではないんだ』胸のうちに、疑念を抱くものがいる。その声は家族を幻想、幻惑だというのである」(H)


確かに、私には両親と似ている部分もあるが、私の中には両親とも、他の兄弟とも決定的に違う、相容れない何かがあると感じる。私は本当は両親の子どもではないのではないか。私は遺伝学的な「鬼っ子」なのだろうか。それとも橋の下から拾われてきたのだろうか。
家族の他の構成員とのそうした心理的な隔たりは、私たちの出自をぐらつかせ、私たちをたまらなく不安にする。これこそが、遺伝学的決定論の弊害である。
しかし、その一方で、この不安や疑念こそが、どんぐりの召命へ向けて、私たちの耳を開かせる。

■子どものために親は出会う?

「私は家族の誰とも似ていない。私は本当は誰の子なのか?」
私たちのそうした根源的な不安に対し、どんぐり理論は「素朴な解決案」を提供してくれる。

●「あなたのダイモーン(守護霊)が、その担い手、つまり『両親』を選ぶように卵子と精子を選ぶのである。受精は必然(ネセシティ)の結果であり、その逆ではない。このように考えれば反発し合う二人の出会いや不釣り合いなカップル、すぐに子どもができたけれど子どもを遺棄してしまう多くの親・・とくに偉人によく見られることだが・・などを説明するのが楽ではないだろうか。二人は自分たちのための結びつきによって一緒になるのではなく、特定のどんぐりを担った、かけがえのない子どもをもうけるべく一緒になるのだ」(H)


二人が出会い、愛し合った結果、子どもが生まれるのではなく、子どものために親は出会うというわけだ。そしてその二人を出会わせるために彼らの親同士が出会い、そのまた親同士が出会う・・・。どんぐり理論は、永遠に遡られる「逆因果の連鎖」のようなものを想定しているのだろうか。

「そんなバカな」と遺伝主義者、因果論者なら言うだろう。
「そんなでたらめなことを容認したら、最後に起こるたった一つの事柄があらゆる事象の目的ということになってしまうではないか」と。
つまり、因果論者の言い分はこうだ。
「どんぐり理論とは、過去の出来事が背中を押すようにして現在の出来事が進行する(因果論)のではなく、未来に実現されるべき最終の目的が過去と現在の出来事を自分のところに引き寄せようとするように進行させているという目的論に荷担するものではないか」

この目的論については、次の回で詳しく見ていくが、ここでの問題は、「今起こっていることは、次に起こることに決定的な影響を与える」という因果論の考えを容認すべきかどうかということである。

いずれにしろ、私たちに必要なのは、あらゆる現象をうまく説明し、納得させてくれる実証主義的な科学でも学説でもなく、「生きられる心理学」である。

「子どものために親は出会う」という考えは、親が離婚を経験した場合などによく陥りがちな「この子は自分たちの間違った出会いによって生まれてきてしまった子なのか」といった嘆きから親を引きとどめるだろう。この嘆きは、「この子は、本来なら(自分たちが間違った出会いをしなければ)生まれるはずでなかった子なのだ」という自己言及的で破滅的な考えへと発展する危険性をはらんでいるが、どんぐり理論は、私たちがそうした因果論(つまり「子どもは親の出会いの結果である」という考え)の罠にからめ取られないように警鐘を鳴らしているのだ。
もちろんこの考えは子どもの意識にも変化をもたらす。「自分は生まれてこない方がよかったのだ」という考えが、「自分をこの世に送り出すために両親は出会ってくれたのだ。その目的を達成したからこそ、二人はその後別々の道に進んだのだ」という考えに変わるかも知れない。

■親の内側で暴れているどんぐり

親が子どもに強い影響力を及ぼすことも、「いい親」を必死に演じることも勝手な「ナルシシズム」だと言うなら、いったい親は子どもをどうすべきなのか。子どもの人生にどう責任をとり、何を与え、どういう態度をとるべきなのか。
「機能不全家族」と言うが、それでは家族として健全に機能するとは、どういうことなのだろうか。最低限、雨露をしのぐ屋根を提供し、服を着せ、食事を用意することか。

しかし、アダルトチルドレンなら、それでは十分ではないと言うだろう。
ならば、価値観を押しつけず、強制せず、支配しようとせず、もちろん暴力もふるわず、必要なときには援助をおしまず、それ以外のときには口出ししない親か。

まず、支配や強制に関して言えば、大人の狡猾さで子どもは支配できても、子どものどんぐりを支配することはできない。親がどんなに強制しようとしたり支配しようとして頑張っても、どんぐりの召命はそれをはるかにしのぐほどの強さで子どもに働きかける。

●「内なるどんぐりは、強迫的だ」(H)


ここで、子どもに対して親がふるう暴力(「体罰」「せっかん」あるいは「愛の鞭」・・・何と呼ぼうとかまわないが)について、少し考えておきたい。

親が子どもに暴力をふるう原因について、しっかり分析しておかなければならないことがある。
まず、もっとも深刻なケースは、その親がもともと暴力性をもっていないかどうか、ということだ。その親が、もともと激しい暴力の衝動をもっていて、自分でそれを自覚していようがいまいが、普段はまったく別の「仮面」をかぶっていて、「優しい親」を演じているとしたら、極めてやっかいだ。
外部の人間がそれを見抜くのは非常に困難であり、暴力を受けている当の子どもにさえ、「これは暴力だ」という認識をもたせないかもしれない。
そればかりか、こういう親は悪知恵を働かせ、自分も「トラウマ被害者」であるという仮面さえかぶる場合がある。因果論を暴力の隠れ蓑に使うわけだ。
これが第一の注意点だ。

もうひとつの注意点は、その親が暴力性を抱くに至った原因を、その親がかつて経験した「トラウマ」に求めることができる場合と、そうでない場合がある、という点だ。
その親の暴力性が、自分が受けた過去のトラウマに起因する場合、それは明らかに病理性の暴力衝動であり、本人自身も何らかの依存症や嗜虐などの機能不全を起こしている可能性がある。
このときに注意しなければならないのは、そういう親を扱う場合、トラウマ治療の対象者が一人増えたのであって、アダルトチルドレンが一人増えたと考えてはならない、ということだ。

しかし、その親のもともとのどんぐりの一部として暴力性があるなら、過去をどんなにほじくっても、トラウマに該当しそうなものは出てこないかもしれないのだ。これは病理性とは違う。
これこそが、犯罪の原因を考えるにあたって、トラウマ理論が抱える根本的な落とし穴なのだが、これについてはアダルトチルドレンのテーマから外れるので、論考を改めたいと思う。

いずれにしろ、何が暴力の原因であるかにかかわらず、こういう親が共通にかぶる仮面として、「これは暴力でも虐待でもない、しつけである」という言い訳があるので、ここにいちばん注意する必要があるだろう。

以上の点を根本的な認識として、ここでは、親が抱く病理性の暴力衝動に焦点をあてようと思う。
このような前提に立つと、暴力の引き金を引いたのが子どもかどうなのか、ということは中心的な問題ではなくなる。
たとえば、親が酔って暴れて、子どもや配偶者に暴力をふるう、といった場合、私の経験から言えば、問題なのは、暴力に訴えざるを得なくするほどに、その人を怒らせ、苛立たせ、あるいは切迫した不安や恐怖を感じさせているのは、子どもの態度でも配偶者の態度でもなく、その人自身のどんぐりである、ということだ。その人が暴力によって黙らせたがっているのは、他人の態度ではなく自分自身のどんぐりの召命なのだ。

これは、私の父親が抱えていた事情でもある。だから、私には痛いほどよくわかるのだ。
ただし、父の名誉のために言っておくが、父は大酒のみではあったものの、父の酒は、どちらかというと陽気な酒だった。酔っているときにはご機嫌なのだ。むしろしらふのときにこそ、父の人生への苛立ちが表れているように見えた。もちろんそのとばっちりは、私にも及んでいた。
致命的に健康を損ねるほど飲酒と喫煙に明け暮れ、ついに意識も朦朧となった末期のベッドの上で、父はしみじみと私に呟いた。
「ああ、つまらない人生だったなぁ〜」
父のどんぐりのあり方を考えるなら、父には、自分のどんぐりの召命に耳を塞がざるをえない事情があった。
自分の親(私の父方の祖父)が抱えてしまった借金の肩代わりをさせられ、年の離れた妹・弟たちの面倒を押しつけられ、長男として家督を継ぐことへの外圧に苦しみ、自分が本当に望む人生を生きられなかった父は、今思うと、両親中心主義、あるいは家父長制といった古臭い価値観の犠牲になったと言えるかもしれない。

暴力の主体が親である場合、たいていの親は、子どもに暴力をふるうほどにも、なぜ自分が苛立っているのか気づかない。だからその理由を子どもに求めるしかないのだ。「私がこんなにイライラするのは、お前がちっとも親の言うことをきかない悪い子だからだ」という具合である。自分のどんぐりの召命に耳をふさいでいる親は特にそうだ。

実は、子どもが親に暴力をふるう場合も、立場が逆なだけで、事情は同じように思える。つまり、自分のどんぐりの召命に応えるすべを知らない子どもが苛立ち、暴れるのだ。
あるいは、自分のどんぐりの召命に従おうとする子どもを親が理解せず、子どもの怒りが爆発するという場合もあるだろう。

■教育はもともと「外注産業」だった

自分の内なるどんぐりに忠実な親は、自分のどんぐりを安らかに憩わせるすべを知っているため、滅多なことでは苛立たないし、たとえ苛立ったとしても、それを子どものせいにしたりはしない。
そういう生き方をしている親をもてば、子どもは自分のどんぐりとのつき合い方を親から学べる。その場合、何も親と子の召命(計画)が一致している必要はない。また、親が子どものどんぐりがどのようなものかを知っている必要もない。
「子どもは親の背中を見て育つ」という昔からの言い習わしは、「親は自分の人生を一生懸命生きていさえすれば、子どもを放っておいても、子どもはそういう親の姿を見て、自然に育つ」という意味以上の教訓を含んでいるように思う。そこには幸福な親子関係が成立し得る条件がある。

それでは、必要なときには援助をおしまず、それ以外のときには口出ししない親が「いい親」なのだろうか。

●「両親のような直接的な保護者が、子どものどんぐりを見抜き、その中に誰がいるのかを知り、その意図をくむと期待することなど、無謀である。教師や指導者が世界にやってくるのは、そのためだ」(H)

●「世話をするものである両親は師匠にはなりえない。役割、仕事が違うのだ。両親は、雨露をしのぐ屋根とテーブルの食事を与え、学校に送り迎えするだけで十分だ。安全な場所を、心安らぐ場所を供するのは容易いことではない。そのような仕事をしなくてもすむからこそ、師は自分の役割が果たせるのだ。つまり、人が歩む道を見いだし、魂(ハート)のうちのイメージに合うファンタジーをもつことができるのだ」(H)


親が子どものどんぐりを見抜けないからといって、それを見抜ける人間(子どもと肉欲をともなわない恋愛関係を築ける人間)を見つけてくることが、親の責任とまでは言わない。生徒と教師、弟子と師匠の幸運な出会いを、親が必ずしも仲立ちできるとは限らない。だからこそ、少なくとも、そういう出会いに恵まれずに苦しんでいる子どもの事情だけは、親として理解しておく必要がある。

実は、「家族絶対主義」「両親幻想」には、裏の仕掛け人が存在する、と私は見ている。
その名も「消費経済システム」!
「経済成長」の旗印のもと、「家族」は常に「もっと上へ、もっと上へ」という具合に上昇のイメージに煽られている。
販売員によって日夜繰り広げられる「売り上げ競争」。
コマーシャルは、スタミナドリンク片手に仕事もバリバリ、遊びもバリバリ、たくましくも頼りになる父親像、面倒看がよくて教育熱心な母親像、愛情たっぷりに育てられ、何の問題も起こさず、素直で聞き分けがよく、成績優秀な子ども像を、繰り返し生産し続けている。
血の通った人間らしさは剥ぎ取られ、生身の家族は平均的な(あるいは普通の)「家族像」というざっくりとしたイメージの中にくくられる。するととたんに比較が始まる。「お隣さんに比べてウチの〜は・・・」
マイカー、マイホーム、「隣の芝生」、人並みの暮らし・・・
「もっと、もっと」のかけ声とともに消費が煽られ、父親はネジを巻かれる。企業戦士として骨身を削る父親の休日はカウチに寝そべるしかない。そんな父親をしり目に母親はひたすら熱心な「教育ママ」と化すことで、己のアイデンティティを獲得しようとする。煽られた子どもは、習い事、お受験、エリートコースと、ひたすら「上」を目指す。
しかし、そのような「トップ」の空間には、十分な「椅子」は用意されていない。席に座れない「落ちこぼれ」が相当数出てきてくれるからこそ、競争が激化し、競争に生き残ろうと消費が煽られるのだ。
このように消費経済システムは必ず「上昇」のメタファー、「増幅、膨張、拡大」のメタファーに彩られている。
しかし、魂は、父親の魂であれ、母親の魂であれ、子どもの魂であれ、上昇(グロウ・アップ)するのではなく、下降(グロウ・ダウン)することで、この世に定着するのだ。
定着しないうちは、当然浮足立ち、苛立ち、不安にさいなまれる。

本来、社会制度も、信仰体系も、あるいは文化に導入される神話も、魂のグロウ・ダウンを容易にし、人を幸せにするために作られるべきだが、現実はその逆のようだ。

●「両親の力という幻想と取り組むことは、むしろ宗教的回心に近いのだ。つまり、世俗主義からの、個人中心主義(パーソナリズム)からの、一神教からの、発達至上主義からの、そして因果性信仰からの回心に。」(H)

トランスパーソナル心理学者のトーマス・アームストロングは、次のように述べている。

「・・たしかに子どもの物理的・生物的身体は両親の遺伝コードを受け継ぎ、母親の肉体から生まれてくるし、子どもの身体や感情や知性は、親子関係や文化の広範な影響のなかで育まれる。しかし子どものスピリットや魂は、どこかほかのところからやってくる。子どもの魂は、たしかに両親との身体的・感情的・知的関係にも一部かかわっているが、その関係にのみ属しているわけではなく、はるかに広大な永遠普遍ですらある枠組みのなかで存在している。
 このことを心得ていると、親たちは、子どもの芽生えつつある自我が引き起こす感情的トラブルに巻き込まれなくなり、子育てのストレスや緊張から解放されるようになる。親たちはもはや子どもの運命を握る人物ではなくなり、旅の同伴者のような存在へと変わっていくことだろう。」
『光を放つ子どもたち』(日本教文社)より






「アダルトチルドレン徹底批判(その2)」はここまで。
次回は、どんぐり理論と運命論および目的論を徹底比較し、アダルトチルドレン問題に決着をつける。
posted by AK at 12:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 論考
タグクラウド
3.11 DNA SF どんぐり理論 アイデンティティ アインシュタイン アカシックレコード アセンション アダルトチルドレン アラハバキ イデオロギー イデオローグ インカ インディアン エイリアン エネルギー交換 オープニング・トゥ・チャネル カタストロフィー カルマ クリシュナムルティ ケン・ウィルバー コンシャス・チャネラー コンシャス・チャネリング サネヤ・ロウマン&デュエン・パッカー サバイバル シャーマニズム シャーマン シュード・ニルバーナ ジェイムズ・ヒルマン ジャンクDNA スピリチュアル セロトニン ソウルメイト チキンレース チャネリング トマス・ムーア トランスパーソナル ドグマ ドリームへルパー ハイヤーセルフ ハルマゲドン ハンディキャップ バイアス バシャール バッド・トリップ バースビジョン バース・ヴィジョン パラダイムシフト ヒプノセラピー ヒーリング ビッグ・バン ファシズム ブックガイド ブラッドシフト ブラフマン プレアデス プレアデス星人 ヘレン・ケラー ホメオスタシス ホログラフィ ホログラフィー ボディランゲージ ポール・ヴァレリー マニフェスト モンキーマインド ヴェーダーンタ 一卵性双生児 三次元 世界観 五感 他者 侵略者 信仰 個性 倫理観 優生思想 元型(アーキタイプ) 先住民 先制攻撃 光と影 光速不変法則 共同創造 分離と対立 右脳と左脳 唯物論 善悪 因果 因果論 固定観念 地球 地球と人間 変性意識 夜船閑話 夢の心理学 夢日記 大野乾 宇宙エネルギー 宇宙人 安心・安全 安藤治 宮沢賢治 巨石文明 常識 幻覚 引き寄せの法則 弦(ストリング) 影の投影 心的エネルギー 忖度 恐怖 悟り 意識 意識体 意識変革 感覚遮断 戦争 挑発 支配と被支配 文明 時間 最後の審判 未開社会 村上和雄 東北 東日流外三郡誌 樹木 欲望 無意識 物質 物質化 猛暑 環境破壊 生存圏 異常気象 異星人 癒し 白隠 直観 瞑想 瞑想の精神医学 社会格差 社会通念 神霊の世界に覚醒して 禅病 第三の目 第六感 精神 精神世界 素粒子物理学 終末観 経済 結界 統合科学 縄文 聖域 聖戦 脳内ホルモン 脳波 自己責任 自然災害 自衛 英雄 葛藤 観想 調和 講演会 貧困 超感覚 輪廻転生 退行催眠療法 進化 遮光器土偶 遺伝 遺伝子オンで生きる 長編SF心理小説 障害者 震災 高次元 魂の原理 魔境 DNA