2019年11月07日

人はなぜ人をいじめるのか(その4)誹謗・中傷か、それとも大人の判断か

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■「誹謗・中傷」と「告発・糾弾」はどう違うか

今私は、母が書いた「いじめ」に関する手記を世に出すべく、新聞社や出版社に企画を持ち込むという作業を集中的にやっている。
これは、今まで闇に隠れていた物事の真の姿を、白日の下にさらす、という作業だ。
その作業を続けていく中で、改めて思うことがある。

恐縮だが、世の中のたいていの人間は、いじめ、虐待、ハラスメントという問題を、まったくもって甘く見ていると思う。
まず、内情を知らない。圧倒的に知らない。知りたくもないのかもしれない。言い換えれば「他人事」なのだ。しかし、誰でもいつでも当事者になり得る。

恐ろしいことに、目の前で今まさに起きているにもかかわらず、気づかない場合さえある。目撃しているにもかかわらず、それを制したり、誰かに通報したりするどころか、面白おかしく傍観してしまう場合さえある、まったく悪意なく・・・だ。
単に鈍感だからとか、迂闊だからといったことではなく、ごく常識的な人でさえ、あるいはどんなに優秀で、社会的地位が高い人でも、こういうことが起こり得るのだ。
「知らない」あるいは「見過ごしている」という理由で、このような状態が続くなら、あなたは「いじめ」に少なからず加担者することにもなりかねない。
なぜそのようなことが起きるのだろう。

持ち込み企画を受け付けているたいていの出版社が、取り上げられる企画や原稿に、いくつかの条件を設けている。もちろん当然のことだ。中でも必ずと言っていいほど目にするのが「他人を誹謗・中傷するような内容を含まないもの」という条件だ。
私はこの条件に、やや引っかかった。
姑から受けたいじめの実態を克明に描いた母の自伝は、これにあたるのだろうか。
すでに故人となっている義理の母親を誹謗・中傷することになるのだろうか。
では、たとえばヒットラーがやったことを告発・糾弾することは誹謗・中傷にあたるのか。
誹謗・中傷と告発・糾弾はどう違うのだろう。

もちろん特定の誰かを無責任かつ一方的に攻撃することはフェアではない。
だからといって「あつものに懲りてなますを吹く」という態度になるなら、その裏には「人を責めることはよくない」という、あまりに大雑把な倫理観が隠れていないだろうか。相手が目上の人間だったら、なおのことだ。
また、「死者を鞭打つ」ことをタブー視する風潮もある。

しかし、ここでよく考えていただきたい。たとえ相手が血族であろうと、義理の関係であろうと、すでに故人であろうと、ある人間がやらかしたことに対する責任を問うことまで非倫理的だと考えるなら、被害者が加害者を告発する道は閉ざされる。たとえば、実の親が子どもを虐待しても、子どもから告発しにくいことになってしまう。そういう理由で躊躇っている子どもがどれだけいるだろう。これは、なまじの倫理観が生んだ悲劇だ。大人が先鞭をつけなければならないのではないか。
問題はそのやり方だろう。

■かかわり方と理解の深さ

責任の所在をはっきりさせることと、誰かを誹謗・中傷することとは、まったく次元が異なる。どのように異なるか? それは事象に対するかかわり方と理解の深さだ。

誹謗・中傷とは、ろくすっぽ事情をわかっていない人間が、興味本位で出来事の当事者の一方を責め立てることを言う。スタンドからの無責任で口汚いヤジに等しい。極めて自己満足的で薄っぺらい行為だ。特に現在のネット社会では、匿名で相手を名指し攻撃できる。これも一種の「いじめ」である。自分が「安全地帯」にいて、特定の誰かを名指しで攻撃する人間は、いじめの加害者予備軍とさえ言えるかもしれない。そういう素地のある人間は、実際にいじめの現場にでくわしたら、加害者に加担する側に回るかもしれない。

さらに、日本だけなのかどうか知らないが、「死者を鞭打つ」ことへのタブーは、仏教的な戒めだろうか。それとも上下関係に重きを置く神道思想の影響だろうか。
もし「死者は反論できないから」という理由なら、それは「眼差し」の問題だと私は見ている。たとえば母の自伝の場合、もし母が書いている内容に、嘘・偽り・誇張・不誠実などがあるなら、それは母の責任が問われる。そうでない限り、いじめの実態を知った読者が、スタンドからヤジを飛ばすがごとく、当事者の一方を面白おかしく言い募るのか、それとも冷静に公明正大な眼差しを向けるのか、という問題だ。つまり、ここでも受け取り手のかかわり方と理解の深さが問われている。

一方、たとえばあなたが運悪く、いじめの被害者になってしまい、加害者を告発しようということになったとする。あるいは被害者側につく弁護士になったとする。
あなたは、いやが上にも事件の深層に深く分け入っていくことを余儀なくされる。誰よりも深い理解を要求されるのだ。あらん限りの洞察力を働かせ、実際には何が起きたのか、起きたことにどのような意味があるのか、何が正しい判断なのかについて、誰よりも深く知っておかなければ、裁判には勝てない。
被告側である加害者は、あの手この手を使って言い逃れや罰の軽減を目論んでくるだろう。あなたはそのいちいちに説得力のある反論を返さなければならないのだ。

一般に、裁判とは、二人の当事者の対立をはっきりくっきり際立たせ、白黒をつけることである。そこに曖昧さがあってはならない。しかも、対立を対立で終わらせることが裁判の目的ではない。何がどう対立しているかをはっきりさせたうえで、最後には原告側、被告側双方が納得できる判決がもたらされる必要がある。それぞれ別々の方向へ相手を引っ張ろうとする二つのベクトルをつなぎ止め、その二つを統合する第三の方向性を示すことで対立を解決する、ということだ。無責任で曖昧で薄っぺらい審判が許されるはずもない。

出版社もまた、取り上げるテーマに関して公明であるべきだが、もし「他人を誹謗・中傷するような内容を含まないもの」という条件が、「出版物が、特定個人を一方的に攻撃するようなものにならないようにする」という当初の目的を逸脱し、自分のところに降りかかる火の粉に対して予防線を張る、という一種の「ことなかれ主義」に傾くなら、それは本末転倒である。
公明であるということは、対立軸の一方を排除することではなく、むしろ何が対立しているのかをはっきりさせることである。スタンドからのヤジに気を取られるのではなく、スタンドの中で誰と誰がどのような戦いを演じているのかを注視することだ。
ここでも、出版社という公共のメディアの「眼差し」が問われるわけだ。

もう一度繰り返す。
物事の隠れている深層を明らかにすることと、特定の人間を一方的に責めることは、まったく次元が異なる。かかわり方と理解の深さが違うのだ。
新聞や週刊誌やテレビのニュースを見た程度でわかった気になるのは、井戸の蓋を開けて、ほんのちょっと中を覗いた程度のことだ。あなたが真実を知りたいなら、井戸にロープを垂らし、その中に深く降りて行かなければならない。

母の手記を読むことは、井戸の底への降下を余儀なくされるだろう。あまり深くかかわりたくないことに深くかかわることであり、スタンドを降りてプレイフィールドに片足を突っ込むことである。少なくとも私にとってはそうだった。
もちろん上っ面をサラっと撫でることは可能だ。「へえー、こんな人もいるのか・・・」といった程度ですませようと思えば、いくらでもできる。しかし、「これはいったい何なのか。いったい何がなぜ起こったのか、そして今も起こり続けているのか」と深読みしようとすると、あなたはとてつもなく深くて暗い井戸の底に降りていくことになる。もはや他人事ではない。自分も何らかのダメージを負うかもしれない。しかし、それをしなければ、対立に統合をもたらすことはできない。
当事者でもない一般人が、そこまでかかわる必要があるのだろうか。

もし戦後のドイツが、「ヒトラー現象」というものを徹底的に弾劾し、反省し、二度と起こさないようにするにはどうしたらいいかを考え、それを実践してこなかったら、今のドイツの発展はあっただろうか? 国を挙げてのその「戦後処理」の試みは、国民に対し、国造りへの徹底した「参加意識」をもたらしたのではないか。
そこには「ヒットラー現象は、他人事でもないし、過去でもない。今の自分たちに明日起きてもおかしくないのだ」という高い問題意識があったはずだ。

■いじめ行為の水面下にある「快楽」

さて、私が今ここで、その「理解の深さ」をどれだけ表現できるかわからないが、できる限りやっておく必要がありそうだ。

まず、「いじめ」に関して、表に見えている部分から問題を整理しておこう。

〇今まで「いじめ」というと、子どもが子どもに対してやる未熟な「いたずら」あるいは「戯れ」程度のものだと思われてきたかもしれない。やがてそこに教師が加わった。つまり大人から子供へ、という現象になってきた。そのとき教師は、自分がやっていることは「教育的指導」の一環だと言い訳するのが常だ。
そして、学校現場でのいじめは、ついに先輩教師から後輩教師へとエスカレートした。この場合も、加害者は被害者を「可愛がっていた」と言い訳する。

〇家庭における「虐待」ということになると、もっぱら親が子どもに対してやる行為だ。子どもが小さければ小さいほど行為は深刻化し、不幸にも子どもの死で終わるケースも増えてきた。そして、たいていの場合、親は「しつけ」の一環だと主張する。だから子どもが死んだ場合、「たまたま打ちどころが悪かったのだ」と言い訳する。
子どもが運よく虐待を生き延びたとしても、今度は子どもから親への「家庭内暴力」として発露してしまう場合さえある。これは二重の悲劇である。

〇「ハラスメント」という言葉は、特に組織の中で権力を握っている者が、その権力を私的に悪用し、配下の者に権勢をふるったり、自分の欲望のはけ口にしたりする行為という意味で、大人が大人に対してやる行為だ。加害者は「自分が組織の責任者として、皆の面倒を看ているのであり、配下の者が自分の言うことを聞くのは当たり前だ」と言い訳するだろう。それが世間への言い訳か、自分への言い訳かは関係ない。

さて、構図がはっきりしてきた。
いじめ、虐待、ハラスメントという行為は、上から下へ、強い立場から弱い立場へ、というベクトルを持っている。これが第一の認識ポイントだ。
それから、加害者には罪悪感がない、というのも特徴的だ。加害者は自分なりの論理(言い訳)をふりかざす。そこにもし「目下の者が目上の者に従うのは当たり前」という風潮があるなら、なおさら加害者に言い訳を与えるだろう。さらに恐ろしいことに、加害者は罪悪感を持たないどころか、自分の行為を「自慢の種」「手柄」と捉えているフシさえある。
これはやや見えにくいかもしれないので、はっきりさせておくが、いじめ、虐待、ハラスメントという行為には、加害者にとって、ある種の「快楽」が伴う。
愉快・爽快、楽しい、人に自慢したいほど面白おかしいのだ。
子どもにとって「いたずら」や「戯れ」は、もちろん楽しい。
権力者にとって、自分の立場を誇示し、他人を意のままに操ることは、支配欲を満足させてくれて面白おかしい。
ある種のサディストにとって、人が苦しんでいる姿そのものが快感である。それが自分の関与によるものなら、なおさらだ。その行為の「今、この瞬間」がたまらないのだ。
他人を自分の性的な欲望のはけ口にする「セクハラ」は、単純に性的快楽を伴う。それも、他人を自分の性的な「戯れ」の道具にしたいという支配欲の表れでもあるだろう。

加害者にとって被害者は、己の快楽のオモチャだから、「生かさず、殺さず」で長続きさせたい。だからこそ、運悪く死なせてしまったら、「たまたま打ちどころが悪く・・・」となるのだ。「ちょっとやり過ぎて、大事なオモチャを壊してしまった」ということなのだろう。
オモチャのはずの被害者から思いがけず手痛い反撃を受けたら、加害者が「可愛がってきたはずなのに・・・」と面食らうのもうなずける。そこには、上下関係が崩壊したことへの戸惑いも含まれる。
いずれにしろ加害者は、自分の「快楽」を正当化するために、あらゆる社会的尺度をふりかざす。立場が上か下か、指導する側・される側、親が子に施す「しつけ」、「目上の者を敬うべし」という風潮・・・。

ここで再び、先日神戸の小学校で起きた教師間いじめの事例を思い出していただきたい。
公開された映像を見ると、個人が特定できないよう加工はされているものの、現場の雰囲気は何となく伝わってくる。被害者を羽交い絞めにし、辛いカレーを無理矢理食べさせたり、目に塗りたくったりしている実行犯は、愉快そうに見える。嘲笑も聞こえてくる。いじめを楽しんでいる。
もし被害者に「恥」の感覚があり、「我慢」という概念があったら、いじめ行為をじっと耐えていたのかもしれない。その姿は、第三者からは「楽しんではいないものの、受け入れている」というふうに映ったとしても不思議ではない。だとすると、それはまるで、大学のサークルなどで、新人を「歓迎」するイニシエーションでもやっているように見えたかもしれないのだ。「ああ、威勢のいい若者が、戯れているな」「ちょっと悪ふざけが過ぎるな。でも、止めに入るほどではないな」といった具合に・・・。それが日常化していたとするなら、なおのことだ。
私がいちばん気になっているのは、誰があの動画を撮影したのか、ということだ。撮影者にもある種の「快楽」が匂う。つまり、いじめの共犯者ではないか、ということだ。もし撮影者が、いじめの実態を告発する意図で、「動かぬ証拠」として記録していたとするなら、隠し撮りだったはずだが、画角はあからさまであり、実行犯と快楽を共有していたフシが見受けられる。
もうひとつ特筆すべきは、この映像には主犯格が映っていない、ということだ。

■加害者は手練れの「ガキ」

さて、上が下に、強者が弱者に対して行う「悪ふざけ」としてのいじめ、虐待、ハラスメントに共通するのは、組織や立場の私物化、他人の道具化であり、加害者の心理として共通するのは「幼児性」だ。はっきり言って、加害者は「ガキ」である。大人になり切れないガキなのだ。私たちはガキにすっかり振り回されているのだ。
人は、年齢を重ねれば大人になるわけではない。目上の人間の中にも明らかな「ガキ」が相当数存在する。
「ガキ」の状態とは、極めて狭い定義でのエゴに自己同一化している状態を指す。子どもはエゴが自分のすべてだと思っている。自分都合でしか世界を見ない。だから他人もそのようにしか見なさない。子どものエゴが快楽や欲望に支配されているなら、他人はそれらのはけ口の道具でしかない。ガキは、他人をそのように扱うことに罪悪感を持たない。

ちなみに、大人のサディストだったら、自分の欲求を満たすのに、一般人を相手にはしない。マゾヒストしか相手にしないだろう。大人は、自分の欲望を満たすときにも、マナーやルールをわきまえる。犯罪へと逸脱するのは、やはり「幼児性」のなせるわざだ。

やがてガキは、あらゆる人が必ずしも自分と同じようには考えないことを理解し始める。あるいは、自分自身が必ずしも考え通りには行動しないことも経験する。自分が見る自分、他人が見る自分、自分が見る他人、そうした経験を積み重ねることで、エゴは相対化される。エゴは消えはしないが、エゴの部分だけが自分ではないと、理解できるようになるのだ。人はこうして大人になる。

いじめ、虐待、ハラスメントの加害者には、これが起きていない。(起きない理由はひとつではないが、それはまたの機会に検討しよう。このプロセスが起きていない人間に、外側から人為的に起こさせることができるか、という問題もここには絡んでくる)
大人になるプロセスが起きていない以上、どれだけ見た目は大人でも、あるいはどれだけ立派な地位に就いていようが、中身は「ガキ」だ。ガキである以上、他人の痛みなど理解しようがない。自分の快楽や欲求のために、私物化・道具化に明け暮れる。
そいうガキがガキと出会えば、そこに幼稚な「快楽」の共有関係が成立する。そこに社会的な上下関係があれば、その快楽共同体にとたんにハイアラーキー構造が生まれる。つまり、主犯と共犯、黒幕と実行犯といった関係性だ。たいていの場合、ハイアラーキーの頂点はかすんでいて見えにくい。映像には映らない。

もうひとつ、子どもは誰が見ても未熟だが、大人の姿をした「ガキ」は、いわばベテランの「ガキ」だ。労たけている。言葉が巧みで、立ち回りも上手く、巧妙に人の心に入り込み、あらゆる手練手管を用いて自己(エゴ)を正当化する。うっかりしていると、コロッと騙されるだろう。こういう手合いにかかると、被害者になるのも加担者になるのもアッという間だ。あなたは、こういうベテラン詐欺師に引っかからない自信があるだろうか。

母の自伝を読むと、まさに祖母がこれだった。祖母は実に巧妙に「嫁いじめ」を正当化していた。他人がいる前では、母をいじめるような素振りはいっさい見せないのだ。むしろ「自分は嫁から不利益を被っているのだ」というフリを装っていた。祖母は自分の子どもたちからは「慈母・賢母」と慕われていて、周りからは大らかな性格だと思われていた。一方嫁である母は、物事を大袈裟に捉えすぎる性格で、闘争心が強いと思われていたようだ。これは、祖母のイメージ戦略だったのだ、意識するしないにかかわらずだ。祖母は、被害者の仮面を被った加害者だったのだ。
だから、もしかしたら周りの誰も「嫁いじめ」に気づいていなかったのかもしれない。あるいは、気づいていたとしても、確証のないところでは何も言い出せなかったのか・・・。しかし、ここで言う「周りの」人間たちは、誰もが高い教養を持つ「常識人」だったはずなのだ。

かくいう私自身も、母に告白されるまで、気づかなかったのだ。母と祖母が何となく険悪であることは、もちろん気づいていた。嫁と姑はなかなか折り合えないのだろう、ぐらいには思っていた、表面的には・・・。
しかし、今思い返すと、家庭内のそうした険悪なムードは、幼い私に想像以上のダメージを与えたようだ。本来、愛と調和に満ちているべき家庭に、憎悪に根ざした対立と闘争の火花が年中散っていたら、いくら無意識の幼児でも、自分に降りかかってくる火の粉に気づかないはずはない、内面的には・・・。
私の経験では、その火の粉は特に免疫系にダメージを与える。そのダメージは、還暦を過ぎた今でも私の中でくすぶっている。古傷が疼く感じなのだ。
井戸の深さは、こうした部分にもある。当事者だけの問題ではないのだ。周りにいる、特に立場が弱い者は、たちどころに巻き込まれる。まだ幼かった当時の私が、いかに祖母の権力闘争の「道具」として扱われたかが、母の自伝でよくわかる。私は「巻き添え」を食わされたのだ。

しかし「大人ガキ」がどれだけ巧妙でも、いつまでも隠しおおせるものではない。
家庭を支配していた当時の目に見えないムードは、私の記憶の表層部分にはない。私の無意識のもっとも深い部分に沈潜していた。それが母の自伝によって表面に浮上してきたのだ。
当時の私は、「なぜ自分は年中高熱を出して寝込み、親に迷惑をかけるのか? なぜ年中悪夢をみてうなされるのか」という具合に、自分の生命力の弱さを卑下し、得体の知れない闇の世界の深さに怯えていた。ただやみくもにもがき、あがき、苦悩していた。自分の身に起きていることと、周りで起きていることとが、まだうまく結び合わされていなかったのだ。こうした疑問に対して、母の自伝は、まったく予想もしていなかった解答を与えてくれたのだ。

■ガキに対する大人の振る舞い

私のものの言い方は、辛辣だろうか。
読者であるあなたは、「身内の恥をさらして、ましてや死者を鞭打つような真似をして、よく平気だな」と思うだろうか。「自分が憶えてもいないことを、客観的に証明できもしないことを、なぜそこまで追究しようとするのか」と思うだろうか。
しかし私は、死者の名誉を守るくらいなら、今生きている人間の尊厳を守る方を選ぶ。
スタンドに留まるより、フィールドへ眼差しを向け、そこへ降りていくことを選ぶ。

一般に、いじめ、虐待、ハラスメントの被害者は、自分が受けた行為を「恥」と捉える傾向があり、また報復を恐れるがあまり、誰にも相談できず、できれば公にせず、隠しておきたいという心理が働くようだ。
親が子どもを虐待する場合などは、被害者である子どもにとって、加害者は恐怖の対象であると同時に愛着対象でもあるため、子どもの口からはなかなか事態が発覚しない、という事情もある。

一般的な被害者同様、母にとっても、自分が背負ってきた運命は、誰にも語らず、墓場まで持っていく「秘密」のつもりだったようだ。
もちろん、すべてではないにしろ、自分が少なからず関与して造っている「家庭」の中に、いじめの加害者と被害者がいる、ということ、ましてや自分が被害者であることを表沙汰にすることは、自分や自分の身内の「恥」をさらすことであり、まかり間違えば自分の人生を「栄光に輝くもの」から「くすんでどんよりしたもの」へ貶めることにもなりかねない。
今回母は、勇気をもってその「恥」を乗り越えた。もちろん、次世代に同じ轍を踏ませないためである。
ただしそこには、母なりの「配慮」があったようだ。まず少なくとも母は、加害者が生きている間は、いじめの事実を誰にも漏らさなかった、自分の夫にさえ。その理由を母は、「誰しも、自分の母親を悪く言われるのは嫌だろうから」と述べている。
関係者が次々にこの世を去る中で、母にとってのベストなタイミングがようやく訪れたのだろう。
誰が誠実な大人で、誰が「大人ガキ」かは、明らかだ。

次は私の番だった。
「嫁いじめ」の実態を明らかにした母の自伝を出版しようとすることは、母にとっての「恥」というより、私にとって、ある意味「諸刃の剣」である。祖母と母は血がつながっていない分、「しょせん他人」で押し通せるが、私は祖母の血を引いている。だから祖母をいじめの加害者にするような文献を世に出すことは、ほんの少し自分で自分の首を絞めることだと思われても仕方ない。
しかし、私は覚悟を決めている。
だから、この作業は、私にとって「血のつながり」との決別でもある。
ただし、断っておくが、私は死者を「鞭打つ」ことで、弾劾裁判をしたいのではない。むしろ、生きているあなたに訴えたいのだ。
これが、母の覚悟を受けての、私の決意だ。
なぜなら、問題は過去ではないからだ。

■ガキは決して満足しない

ここで、こういうエピソードを披露しよう。
先日、久しぶりで母のもとを訪れたときのことである。
母が真面目な顔をして、いきなり「お前は大人か」と言うのだ。
意味がわからず、私がポカンとしていると、母は「お前は大人だろうから、もうこういう話をしてもいいだろう」という前置き付きで、こんな話をした。
つい先日、近所に住んでいながら、滅多に顔を見せたことのない親類の者が、突然母のもとにやってきた。何の用かと思ったら、その親類はこんな意味のことを言った。
「あなたはもうそうとうな歳である。いつ寝たきりになってもおかしくない。施設に入らなければならなくなったら、自分が金を出さなければならない。あなたがそれに見合う金を持っていないことはわかっている。あなたの息子も持っていない。だから、自分が出さなければならない」
母がそれを受けて、「あなたに世話になるつもりはない」と言う。
これは母の本音だ。日頃からあまり折り合いのよくない親類だったから、母がその人物に世話になろうとは、露ほども思っていないことは明らかだ。
すると、その人物は「そういうわけにはいかない。そうなったときに、自分として黙って見ているわけにはいかなくなる。だから、今からなるべく金を使わずに貯めておけ」と言ったという。その人物は、母が無駄遣いしないよう、いざとなったら自分が金を持ち出さないで済むよう、母に釘を刺しに来た、というわけだ。母は、自分の金の使い途まで、その人物にとやかく指図されなければならないのだろうか。
その人物からすれば、母は敬意を払うべき年長者のはずだ。しかも母は、その人物に対し、過去に数千万円単位の援助までしている。もちろん母は、その人物に直接ではなく、その家族の方が縁が深いため、家族のために工面した、という事情がある。その際にも、この人物からは一言のお礼もなかったという。母にもしものことがあったら、誰に頼まれなくても、真っ先に援助の手を差し伸べてもおかしくない立場の人間なのだ。これは「年寄りいじめ」ではなかろうか?
その人物は、「自分のすぐ近くに、いつ寝たきりになってもおかしくない年寄りの親戚がいる。そいつの息子も、当てにはならない。その状況は、自分にとって金銭的な脅威だ。自分に火の粉が降りかからないよう、一言物申しておこう」ということのようだ。
出版社が、降りかかるかもしれない火の粉に予防線を張るため、あらかじめ条件をつけておくのと同じ原理だ。
今に始まったことではなく、母も私もその人物からは何度も心無いことを言われて、嫌な思いをさせられてきたのだ。
この人物は、私よりだいぶ年上で、表向きには、ある有名な企業のトップを務めたこともあるほどの立派な人物で、現役引退後の老後の資金として億からの金を持ってもいるらしい。本来は、誰かに金を工面してもらわなければならないような境遇ではないのだ。ところが、何が不安なのか、自分の蓄財が一円でも減るのが気に入らないらしい。見ていると、その強欲さ、吝嗇ぶりは病的ですらある。自分の意のままになる人間を動かして、あわよくば他人の財産を自分の懐に入れよう、という素振りまで見受けられる。
黒幕は見えにくい。人の陰に隠れて暗躍する。しかし、いつまでも隠れていることはできない。

前回私は、大人と子どもの違いを、一言で述べた。
大人は、物もお金も愛情も、必要以上に求めたりしない。子どもは年中「もっと、もっと」と言っている。
まさにこの人物は「ガキ」である。見た目は立派な大人でも、中身は幼稚園児レベルだ。こんな人間が、かつて大きな組織を動かしていたと考えると、虫唾が走る。
問題はまだまだ片付いていない。

■「見て見ぬフリ」か、声を挙げるか

さて、私はある特定の人物の誹謗・中傷をしているのだろうか。これは、読者であるあなたに真剣に考えていただきたい。
件の人物がこの文章を読んだら、「自分が言ったことの真意は、そういうことではない」と言い訳がましく反論し、私を非難するかもしれない。
ある大手エンタメ企業のトップが、パワハラまがいのことを口走ったとき、「場を和ませる冗談のつもりだった」と言い訳した例もある。
それでも私は、その反論も含め、この場に書き続けるだろう。
それが私の覚悟だ。

母は、こういう場合、頑なに口をつぐんできた。私はそれが必ずしも倫理的だったとは思わない。現に母は後悔している。その後悔が自伝を書かせた。結局母は、溜め込むだけ溜め込んでから、一挙に放出したのだ。それは母の個性である。もちろん特定個人に向けて放ったのではなく、世の中に向けて放ったのだ。
他人を傷つけることはよくないことだと言うなら、自分が傷つけられることも放っておいてはいけない。結局のところ、いつまでも放ってはおけないのだから。
私は、スタンドからヤジを飛ばすだけの人間になるつもりは、さらさらない。
それが私の個性であり覚悟だ。

もちろん私は、件の人物に説教しようとは思わないし、態度を改めさせようとも思わないし、謝罪を求めようとも思わない。母も同じ考えのはずだ。ただ「バカなヤツだ」と思って見ているだけである。与するに値しない程度のガキっぷりだ。
それでも私は、読者であるあなたには問いたい。
この手の「ガキ」に出くわしたとき、「大人」として取るべき態度とは、どのようなものなのか。見て見ぬフリ? 「我関せず」? もしその人間が、あなたに対して、あるいはあなたの周りの人間に対して危害を加えたら? それでも「見て見ぬフリ」あるいは「我関せず」?
どこまでなら大目に見て、どこから先は黙っていないのか、その判断は確かに難しい。
しかし、「人を責めるのはよくない」という倫理観が、あなたの判断を鈍らせるなら、あなたは「ガキ」の手口にまんまと引っかかっているのだ。
母の自伝を読むと、母や祖母の周りにいた人間たちは、ついにその判断ができなかった、ということがよくわかる。いつまでもあやふやな態度に終始することは、共犯者に一歩近づくことである。

大人であるあなたが、もしいじめを受けて苦しんでいる子どもに出会ったら、あなたはその子にこう助言しないだろうか。
「私でなくてもいいから、誰か信頼できる大人に必ず相談しなさい。できる限り早く。たとえ加害者があなたの親でも先生でも関係ない。遠慮もためらいも禁物。誰かにいけないことをされたら、それを他の人に報告するのは、正しいこと」
ならばあなたは、自分が被害者になったとき、自分の助言通りにする必要がある。

最後にもう一度繰り返す。
対立をくっきりさせない限り、統合は訪れない。
私たちは、「人は皆同じである」という結論に行きつくために、「私とあなたは、まるで違う人間だ」から始めるのだ。

posted by AK at 16:27| Comment(2) | 論考

2019年10月22日

被災者が迅速な支援を受ける権利を妨げるのは憲法違反です

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■断水地域に水を届けることを県知事が邪魔した!

台風19号の影響で断水被害に遭った神奈川県山北町で、陸上自衛隊の給水車がいち早く現場へ向かったにもかかわらず、被災者が一滴の給水も受けられないまま、県によって給水車が追い返されてしまう、という事態が発生した。
この信じ難い事態の背景には、融通の利かない縦割り行政に伴う、政治的な権限をめぐる対立の構図がある。
災害に伴い、市町村が自衛隊に支援要請を出す場合、まず都道府県の知事に要請を出し、さらに知事から防衛大臣に要請する、という手順を踏まなければならない。
市町村が直接要請を出せない仕組みになっているのだ。
ならば今回、被災者が直接自衛隊に支援要請を出していたとしたら、事態はどうなっていただろう。

山北町の湯川町長は、静岡県内にある駒門駐屯地(御殿場市)の陸上自衛隊に「給水車の支援をお願いするかもしれない」と連絡したうえで、県にも「県民が給水を待っているため、自衛隊に災害派遣要請をしてもらいたい」と求めた。
自衛隊は、いずれ県から派遣要請が出るだろうという想定のもと、あらかじめ駐屯地を出発。すぐにも現場入りできる状態だった。
これを知った県は、「こちらが要請を出していないのに、なぜ勝手に事を進めるのか」と町に問い合わせた。町は「住民が一刻も早い給水を待っている。自衛隊には、県からゴーサインが出たら、すぐに給水作業に移れるよう、町内で待機してもらうつもりだった」と説明するが、県は「こちらで給水車を出すつもりだったから」という理由で派遣要請を出さず、自衛隊の給水車3台を追い返してしまったという。
県の給水車が現場に到着したのは、自衛隊の給水車より5時間遅れだった。
こんな事情では、「県は、自衛隊に手柄を横取りされたくなかっただけだろう」と勘繰られても致し方ない。

もしこの5時間の間に、脱水症状を起こす被災者が現れたり、赤ん坊がミルクを飲めず、死の危険にさらされてしまったとしたら、いったい誰がどのように責任を取ったのだろう。
黒岩県知事は、記者会見で「法律的に正しい判断だった」と答弁しているようだが、私はこの事態は、人道的に許されないばかりでなく、法律違反だとさえ思っている。
(後に黒岩知事は「融通の利かない対応だった」と陳謝しているようだが、相変わらず「ルール上は正しかった」と自己正当化したうえで、「柔軟な対応もできた。判断を下す余裕がなかった」と言い訳している。)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191016-00000021-kana-l14

■これは災害支援における人権侵害です

人は自分の判断に自信も余裕も持てないとき、ルールや法律に寄り掛かろうとする。
これがもし、被災者自らが支援要請を出していたら、事態はもっと明白だったのではないか。
被災者側から「とにかく水がないので、誰でもいいから一番早く給水できる機関に対応してほしい」となっていたら、縦割り行政もへったくれもなく、真っ先に対応できる機関に任せよう、となったはずだ。
つまりこの場合、町も県も自衛隊も、当の被災者を見ていたのではなく、ヒエラルキーの上を見ていたにすぎない。「ルール上は」というのは、その間違った目線の言い訳にすぎない。

たとえば、被災地に向かった自衛隊のヘリが、浸水した民家の屋根で手を振る住民を発見したとして「上からの指令とは違うので、救助できない」となるのだろうか。「別のヘリが後から来るというので、見送ろう」になるのだろうか。少なくとも本部に連絡し、直ちに救助したい旨を伝えるのではないか。
今回、自衛隊はそのような行動を取ったのだろうか。
「人命尊重とルール遵守の間で判断に迷った場合は、迷わず人命を尊重すべし」というのが本来のルールであるべきだ。

日本国憲法は、その前文において「主権在民」(「国民主権」)を謳っている。
災害発生時に、自分の命を守るべく、必要最低限の公的支援を迅速かつ効果的に受ける権利を持っているのは、市町村でも県でもなく、被災者である。この場合、県知事は、県民を支援する責任があるのであって、その責任を免れうるいかなる政治的権限も持ちえない。もっとも迅速かつ効果的な災害支援を妨げるような行為は、明らかな職責違反だ。
もし被災者が憲法上の人権侵害で県知事を訴えたなら、知事が法的責任を免れ得る要素は微塵もないだろう。有事の際に超法規的に対処できたか否か、といった人的資質の問題ですらない。
この場合、町からの要請は、すなわち住民からの要請と捉えるべきであり、被災者が支援要請をしているのに、その職務を果たそうとしている関係機関の行動を疎外するような行為は、公務執行妨害と見做してもおかしくない。
自治体と自衛隊の間にどんな上下間の伝達ルールがあるか知らないが、憲法が最上位だ。

余談だが、最近では会社の社長のことを「CEO」と呼んだりする。「最高経営責任者」という意味だが、「最高経営権限者」ではない点が重要だ。CEOには、会社を健全に経営する責任があるのであって、組織を自分の好きなように動かす権限があるのではない。いわんや、組織を私物化したり、利益を私的に流用したりする権限があるわけがない。
自治体の責任者とて、同じことだ。

■迅速な情報発信を妨げるメカニズム

これは、東日本大震災のときにも散々起こったことだが、迅速かつ柔軟で冷静な判断を下すべき行政機関の責任者が、パニックを起こして、そのパニックに住民を巻き込んでしまう、という事態が、今回も相変わらず各地で起きている。こういう場合、責任者は「住民がパニックを起こすのを避けたかった」という言い訳をするのが常のようだ。

たとえば、国土交通省関東地方整備局は、台風19号の大雨で茨城県の那珂川が13日に越水していたことを知りながら、「氾濫発生情報」を発表しなかった。
那珂川の監視委託員が同日午前1時半ごろに常陸大宮市内での越水を車の中から確認。連絡を受けた同事務所職員も4時45分までに越水を再確認した。
職員は事務所に電話とメールで連絡したが、情報が共有されず、「発生情報」に至らなかったという。同事務所職員は「あまりにも多くのことに同時に対処しなければならず、大変混乱していた」という。
那珂川では同日午前11時以降に堤防の決壊が確認されたが、水位が下がっているなかで発生情報を出せば混乱を招くと考え、発表を控えたという。
https://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/ASMBL35SZMBLUTNB006.html

これは典型的な例だ。
まず情報を得てパニックに陥っていたのは、住民ではなく、情報発信責任者の方である、ということ。パニクった挙句に、結局情報発信できなかった、ということ。その理由として、「情報を受け取った側に混乱を招くといけないから」という言い訳をしている、ということ。
監視委託員から事務所職員へ、という情報のバトンリレーやダブルチェックが必要な体制だったら、情報が一カ所に集中して混乱するに決まっている。そもそも事務所職員が二重に確認しなければならないなら、委託員を頼んでおく意味はない。委託員にビデオカメラでも渡しておけばいい話ではないのか? ダブルチェックは遭難のリスクを高めるだけではないか。ルールが実情にそぐわないだけの話ではないのか。
情報発信のルールをしっかり作って、それを徹底しておけば、関係者が誰でも情報発信できるようになるはずだ。
東日本大震災のときと同様、ここでも組織のヒエラルキーが情報発信を邪魔している。

■「エリートパニック」と呼ばれるもの

災害発生時における県知事のご乱心といい、情報発信機関のうろたえようといい、今回もまた、アメリカのノンフィクション作家、レベッカ・ソルニットの説が正しいことが証明されてしまったようだ。
ソルニットは、その著書「災害ユートピア」の中で、「エリートパニック」という言葉を使っている。
災害時には、当の被災者である多数派は、パニックを引き起こすどころか、むしろ冷静に行動し、自己犠牲と助け合いの精神を発揮する一方、市民生活を管理する側の少数派(エリート)は、自分たち都合で勝手に混乱し、パニクって二次災害を引き起こすことを、同書は指摘している。
そしてこの少数派の行動を「エリートパニック」と呼び、災害時にはむしろ市民社会に権限を委譲した方が、混乱を招かずにうまく事が運ぶことを、豊富な実例を示して検証している。
彼女は同書の中で、次のように述べている。

「災害は普段わたしたちを閉じ込めている塀の裂け目のようなもので、そこから洪水のように流れ込んでくるものは、とてつもなく破壊的、もしくは創造的だ。ヒエラルキーや公的機関はこのような状況に対処するには力不足で、危機において失敗するのはたいていこれらだ。
(中略)
災害がエリートを脅かす理由の一つは、多くの意味で、権力が災害現場にいる市井の人びとに移るからだ。危機に最初に対応し、間に合わせに共同キッチンを作り、ネットワークを作るのは住民たちだ。それは中央集権型でない、分散した意思決定システムも有効であることを証明する。そういった瞬間には、市民そのものが政府、すなわち臨時の意思決定機関となるが、それは民主主義が常に約束しながらも、めったに手渡してくれなかったものだ。」





■軍隊組織でさえ「ボトムアップ型」になりつつある

最後に、こういう例をご紹介しておこう。
ガチガチの縦割り組織と言えば、軍隊組織が真っ先に挙げられるが、そんな軍隊の世界でさえ、トップダウン型の命令系統の是非が問われ、改善の試みがなされている。
軍がある作戦を立案・実行する場合、当然まず可能な限りの情報を集め、状況を細かく分析し、最善の方法は何かを見極め、作戦を立案して、実行部隊に命令を下す。
もちろん下された命令は絶対で、実行部隊がそれに逆らうことはできない。
しかし、実際に現場に行ってみると、当初の分析とは事情がまったく違っている場合だってありうる。その齟齬によっては、立案した作戦がまったく機能しないことだってある。その判断は、いかに上層部に権限があろうと、現場にいない人間が下せるはずもない。
そこで、現場の実行部隊と軍の作戦本部が綿密に連絡しあえる環境を整え、実行部隊からの報告次第では、作戦の内容を柔軟に変更できるような「ボトムアップ」式の命令系統が可能な体制がとられつつある。
しかも、戦闘の現場では一秒の判断の遅れが命取りになる場合もあるため、現場での実行部隊の行動規範(「こういう場合には、こう行動する」)がマニュアル化され、作戦本部からの命令変更を待たずに、実行部隊の責任者にある程度の権限が与えられるような命令系統の再編が行われている。
ガチガチの縦割り組織である軍隊の世界でさえそうなのだ。いわんや旧態依然とした極端な縦割り行政など、災害時にうまく機能するはずもない。
今回、軍隊の命令系統の再編のように、有事の際の臨機応変な支援体制が、被災者目線できちんとマニュアル化されていれば、真っ先に現場に到着できたはずの自衛隊が途中で追い返されたり、迅速に発信されるべき情報が発信されなかったり、といった間抜けな事態は絶対に起こり得なかっただろう。もしこんな事態が戦場で起きたとしたら、責任者は軍法会議行きだ。
人命救助の場面で、相変わらずこんな低レベルのことが起きているようでは、日本は先進国などとはとうてい言えたものではない。

■マニュアル化の必要性

私はある時期、マニュアル化(=規範化)の仕事を専門でやっていた。マニュアル作りに関する独自の理論も構築した。そういう専門家の立場で言わせていただくなら、日本の災害対策行政の現場でのマニュアル化(規範化)の度合いは、限りなくゼロに近いと言わざるを得ない。人命尊重の基本理念に基づいて、効果的なマニュアル作りが成されない限り、全員が統一された意思のもと、あらゆる場面で一定基準を満たす災害支援などできようはずもない。
マニュアルとは、ハードウェアやソフトウェアの使い方を知るためにだけ必要なものではない。ヒューマンウェア(=人間の判断や行動を司るシステム)にこそ必要なのである。

この手の不祥事が起きると、どこの機関も「二度と起きないように対策を講じる」と言い逃れるのが常だが、この手のマニュアル化、ルール作りは、極めて専門性の高いノウハウだ。そういったノウハウが各関係機関にあるとはとうてい思えない。アカデミズムの世界でも、まだまだ確立されていない分野なのだ。
甘く考えてはならない。しかし、早急に取り組まなければならない。
マニュアル化がいかに甘くない作業かを、専門家の立場から一言だけ言い添えておこう。
たとえば、「災害支援」といったひとつの大きなシステム全体をマニュアル化しようとすると、何がはっきりするかと言えば、そのシステムの欠陥がはっきり浮き彫りにされる。しかしマニュアル化の作業そのものが欠陥を改善してくれるわけではない。だから、システムを構築した人間にとっては、あまりやってほしくない疎ましい作業となる。
そういう意味で、マニュアル化とは、システム全体の検証(ダメ出し)作業なのだ。しかし、その作業を経ない限り、不祥事を二度と起こさない対策を講じたことにはならない。

私たちが高い税金を払って、公的事業を委託している行政機関は、その税金に見合うサービスや支援をし得る体制になっているとは、とうてい言い難いレベルであることを、私たちは肝に銘じておくしかないようだ。


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2019年10月19日

人はなぜ人をいじめるのか(その3)

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■いじめとボケは根っこが同じ

母の自伝は、35年の長きにわたる「いじめ」の実態を一貫して克明に描いているからこそ、いじめだけではない、もうひとつの社会問題をあぶり出す結果になったようだ。
それは「ボケ」の問題である。
実は、いじめの問題とボケの問題は、その根底において繋がっている。
この、一見何の関係もなさそうに思える二つの深刻な社会問題に共通するキーワードは、「アイデンティティ・クライシス」ということだ。

「アイデンティティ・クライシス」とは、直訳すれば「自己同一性の危機」ということだが、平たく言うと、自分が何者なのか、自分はこの社会で生きていく価値があるのか、どのように生きることが自分にとって正解なのか、ということを見失った状態ということだろう。
主に青春期の若者が陥りやすい心理的危機だと言われているが、むしろ高年期や老年期のアイデンティティ・クライシスの方が深刻のようだ。壮年期の「鬱」や「若年性痴呆」の問題なども、ここに含まれるだろう。
今やこれは、老若男女を問わない、あらゆる世代にわたる社会問題になっている。
いつ誰の身に起こっても不思議ではない。

■潜伏しているものを明るみに出すことの重要性

母の自伝のもっとも重要な意義は、いじめの被害者の視点から加害者の実態を描き切るというかたちで書かれている点にあるだろう。
いじめの被害者には、どうしても「恥」の感覚がつきまとい、自分がいじめの被害者になったということは隠しておきたい事柄だったりする。だからこそ今まで、いじめの実態について大っぴらには語られてこなかった、という事情があるだろう。
実際母も、書くべきか書かざるべきか、大いに悩んだようだ。しかし、勇気を奮って書いてくれて、本当によかったと思う。そういう意味からも、母の手記は、極めて文献的価値が高い。

母が体験した「いじめ」の実体を、今回の神戸の教師間いじめの構図に置き換えるなら、首謀者と目される40代の女性教員が、「嫁いじめ」でいう姑にあたり、その他の男性教員が、首謀者に手を貸し、いじめに加担しようとする親族(あるいは周囲の関係者)にあたる。

若い女性の自立が進み、結婚という形態をとらなくても、充分に一人で生きていくことができるようになった現代においては、結婚しない女性が増えてきて、特に農家などでは、長男が必死に婚活したとしても、なかなか嫁の来手がいない、という実情があるようだ。
そうなると、「嫁に来てくれるだけでありがたい」ということになるので、「そんな貴重な人材をいじめるなんて、とんでもない」という傾向になってきているようだ。しかし、「嫁いじめ」の相対的な量は減ったかもしれないが、むしろ深刻であればあるほど、その実態は明るみに出ずに潜伏しているのではないだろうか。
今こそ、それらのものを明るみに出す必要がある。

■「アイデンティティ・クライシス」がいじめを引き起こすメカニズム

姑は、なぜ大切な嫁をいじめるのだろう。
ひとつには、その姑が格別に支配欲が強い人間だったり、いわんやサイコパス的な性格だったりすると、とたんにいじめが深刻化する、ということがあるだろう。
もうひとつには、姑の性格の問題というより、嫁が来ることで姑が経験するアイデンティティ・クライシスの問題がある。
特にそれまで姑が専業主婦をやっていて、妻である自分、母親である自分に著しく「自己同一化」している場合、嫁が自分のアイデンティティを脅かす存在に思えても不思議ではない。姑は、嫁がそれまでの自分の「座」にとって代わられてしまうことが怖いのだ。
姑は、嫁をいじめることで、自分の立場の方が上なのだ、自分の方が有能なのだ、ということを知らしめたいのだ。
母に対する祖母のいじめにも、多分にそのような事情がうかがえる。
もし姑が、家庭とは別に生き甲斐を持っているなら、嫁の出現は、家庭の煩わしさから解放され、誰に気兼ねすることもなく、自分が本当にやりたいことに向かえる最大のチャンスになるはずである。

祖母は、結婚して専業主婦となり、自分の夫や子供たちにそうとう「べったり」だったようだ。祖母は、大戦が始まろうとする時期、当時19歳だった長男(後の我が父)が大志を抱いて、モンゴルに新天地を見出そうと日本を出奔し、夫(後の我が祖父)もその後に続いて出国しようと準備していたとき、淋しさ、悲しさ、心細さのあまり寝込んでしまったという。
本来なら、一家の主軸となる二人が相次いで日本を離れ、自分と長女・次男・三男が残されようとするとき、自分が毅然としていなければならないところだろうが、祖母はまったく逆に気落ちしてしまったのだ。
そういうところを見ても、祖母は心理的に自立しておらず、夫や子どもにすっかり依存していたと思われる。つまり、夫や子どもが、自分の存在意義のすべてで、それを一時でも失うとなると、生存の危機に陥ってしまう、ということだ。
ここからしてすでに、後々長男に嫁が現れたときに、生存の危機を覚えて、その嫁と勢力争いを演じたり、排除しようとしたり、という素地が出来上がっている。

自分の存在を支えるものが自分の内側にあるのではなく、外側にあるという状態は、極めて不安定で危うい。そういう人間は、他人からエネルギーを奪ってでも、あるいは他人の生存を脅かしてでも、自分の存在を支えようとする。
それまで専業主婦だった熟年女性の前に、ある日突然現れる「嫁」という名の若くてエネルギーに溢れたライバル・・・
ある職場において、自分の存在価値が曖昧で、自信や生き甲斐を見出せずにいるベテランの前に、ある日突然現れる「新任」という名の異分子・・・
組織を私物化し、いたるところで権勢をふるいたいと思っているトップの前に、ある日突然現れる若くてそそられる女性・・・
日常生活に訪れるそうした突然の変化に向き合ったときに、「アイデンティティ・クライシス」の種を心に抱えた人間が示しがちな反応は、対処や順応(つまり問題の解決)ではなく、抵抗、排除、変化前への引き戻し、あるいは変化の当事者の私物化(私利私欲のための道具化)ということだ。
自分のアイデンティを自分以外の何かに依存しようとしている人間であればあるほど、そのような傾向が強くなる。
しかし本来、自分を支える支柱、生きるよすが、生き甲斐といったものは、自分の外側に見出すべきものではなく、自分の内側から湧き上がってくるべきものなのだ。

■主婦も社会参加することの重要性とは

祖母から常軌を逸した激しいいじめに遭った母が、何度も自殺を考えながら、それでも踏みとどまり、生存の危機を乗り越えることができたのは、ひとつには、母にとって重要な職業があった、という点が大きいだろう。
事実、仕事が母の唯一の支えだった。自分は、社会的に大きな意義のあることをやっているのだ、という自負心が、母に逆境を乗り越えさせたのだ。
母は、自伝の中で、次のように述べている。

私は玄関から一歩外に出たら、家庭内のいざこざを一切忘れることを心掛けていた。
空を眺め、体操の授業をどう工夫すれば子どもたちは喜ぶだろう、雨天の日でも室内体操を工夫しよう、机や椅子を利用しての腕の屈伸、足の屈伸、背筋反らしなど、思い浮かべながら学校へ向かうのだった。
クラスの子どもたちの笑顔に助けられ、教師としての生活が私の生き甲斐になり、苦労も乗り越えられたのだ。即ち職業が私の人生を支えたのである。


他人の存在、他人の人生を、自分の生き甲斐にすることは危険である。たとえ相手が血のつながった家族だったとしてもだ。それは、必ずと言っていいほど、何らかのかたちで裏切られる。
たとえば、教育熱心な母親が、子どもが挫折したときに、自分も一緒に挫折感を味わい、子どもとの関係を崩壊させてしまう、という例は後を絶たない。場合によっては、子どもが自殺したり、無理心中したり、あるいは家庭内暴力が勃発したり、という悲劇も起こってくる。

母親と子どもの関係が、教育者と教え子の関係をうまく兼ねることができるとしたら、それは、母親がもともと優れた教育者としての資質を備えている場合だけである。これは、肝に銘じておく必要がある。そうでない場合、母親が子どもの教育を生き甲斐としてしまうと、とたんにアイデンティティ・クライシスの危険性が高まる。
母親として、子どもに食事を与え、服を着させ、学校へ送り出すということと、教育者として子どもを指導する、ということは、まったく別のことなのだ。

私は、基本的には、専業主婦という生き方は、考えものだと思っている。専業主婦で成功する人は、もともと家事や子育てなどに優れた適性を持つ人だけである。それも才能なのだ。あらゆる女性が、この適性・才能を持っているとは限らない。同様に、あらゆる女性が優れた教育者・指導者になる資質を備えているとも限らない。
自分が本来持っている適性・才能を活かす生き方こそが、アイデンティティ・クライシスを回避するもっとも有効な(唯一無二の)方法だと、私は考えている。

■「アイデンティティ・クライシス」が根底にあるボケのメカニズム

おそらく祖母は、自分の適性・才能を見出すことなく(そういう発想すらなく)、夫の世話と家事と子育てだけに明け暮れて、一生を終えてしまったのだろう。
祖母は、70の声を聞いて間もなくボケの症状が出始め、食べることと、嫁(私の母)をいじめることと、近所の人や親戚連中とくだらないおしゃべりを長々とすることだけが生き甲斐になってしまった。当然のことながら、ボケは進行の一途をたどった。最後は哀れなほどの老醜をさらして、根っこを失った枯れ木が倒れるように命の火を絶やしたのである。

自分の存在には何の意味もない、生き甲斐もない、社会にお役に立てることは何もやっていない、愛し愛される相手もいない、となったら、人はアイデンティティ・クライシスに陥り、生きる意欲を喪失し、そこに加齢による肉体的な衰えが加わったら、当然脳は委縮を始めるだろう。
これが痴呆のメカニズムだと、私は見ている。

もちろん、こうしたメカニズムは、専業主婦の身にだけ働くわけではない。
たとえば、現役中は企業戦士としてバリバリ活躍し、それなりの成果を挙げ、社会的に高い評価を得たサラリーマンが、引退して年金生活になったとき、とたんに生き甲斐を失い、急速にボケる、ということが、ごく一般的に起こっている。いわゆる「濡れ落ち葉族」と呼ばれる人たちは、ボケ予備軍と言えるだろう。こうなると、伴侶にさえ疎まれる存在になってしまう、というわけだ。
人間は本来、死ぬまで「現役の人間」であるはずであり、生涯成長・発達を繰り返せるはずだが、社会的には「お前はもうお払い箱だ」と言われてしまうわけだ。それから先は、自分のことは自分で何とかしろ、とばかり社会から突き放されることになるが、組織において上からの命令で動いていた根っからの企業人間は、路頭に迷っても不思議ではない。
そこから自分で考える能力を身につけようとしても、そういうことに慣れていない脳はパニックを起こす。老境に達してからなら、諦めもつくだろうが、壮年期にそれが起きると、いわゆる「若年性痴呆」の原因になったとしても無理はない。
これもボケのメカニズムの一環である。

一方母は、軽い脳梗塞を患い、片目の視力の半分を失い、転倒によって背骨の一部を圧迫骨折して、入院した病院の先生には、このまま寝たきりになるだろうと言われながらも、御年92歳になった今でも、寝たきりにはならず、身の回りの大抵のことは自分でこなし、頭はいっさいボケることなく、いまだに向学心に燃え、読書を怠らず、そして、自伝の続きを書く意欲に溢れている。
人は、その気になりさえすれば、このような老境を迎えることができるのだ。


posted by AK at 14:04| Comment(2) | 論考

2019年10月18日

人はなぜ人をいじめるのか(その2)

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■いじめの首謀者の心理

10月17日付けの神戸新聞のネットニュースに、次のような記事が配信された。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191017-00000000-kobenext-soci

神戸市立東須磨小学校(同市須磨区)の教員間暴行・暴言問題を巡る保護者説明会が16日開かれ、加害教員4人の謝罪のコメントが読み上げられた。説明会は非公開で、関係者によると、読み上げられた全文は次の通り。

この前文の後に、加害者である30代の男性教員3人のコメントが続いている。
当然のことながら、ただひたすら謝罪と反省の弁だが、最後の40代の女性教員のコメントは、かなり色調が異なっている。

「子どもたちに対しては、こんな形になって申し訳ないです。子どもたちを精いっぱい愛してきたつもりですが、他の職員を傷つけることになり、子どもたちの前に出られなくなり、申し訳ありません。私の行動で、迷惑をかけてしまったことに対して、本当に申し訳ないと思っています。
 被害教員に対しては、ただ申し訳ないというしかありません。被害教員のご家族に画像を見せられ、入院までしている事実と、苦しんでいる事実を知りました。本当にそれまでは、被害教員には自分の思いがあって接していたつもりです。自分の行動が間違っていることに気付かず、彼が苦しんでいる姿を見ることは、かわいがってきただけに本当につらいです。どうなっているのかと、ずっと思っています。」


この女性教員がいじめの旗振り役で、男性教員3人(この女性教員の後輩にあたるだろう)が実働部隊だった、という報道もなされた。
この女性教員をトップとする、いじめ行為のピラミッド構造が出来上がっていたことがうかがわれる。
どうやらこの女性教員は、被害者の男性教員を「かわいがってきた」という認識のようだ。上記のコメントからは、「自分はただ後輩教員に目をかけ、かわいがってきたつもりなのに、それをいじめだと指摘されて、いったい何がどうなっているのか、いまだに理解できていない」というニュアンスが読みとれる。
これは本心だろう。彼女は事態がまったく呑み込めていないのだ。自分は先輩として後輩に正しいことをしてきたつもりなのだ。

この加害教員が被害教員に抱いていた自分なりの「思い」とは何だろう。
そもそも、後輩の教員のことなどは二の次で、もっぱら生徒への愛情や指導に向かうべき教員の意識が、ことさら新任の後輩に向いてしまう原因とは何だろう。

■いじめ構造の裏にある「光」と「影」

ここでまたひとつの心的モデルを提示したいと思う。
人は誰しも強さと弱さの両面を持っている。どんなに屈強な戦士でも、戦場に赴けば死の恐怖に怯え、平常心を保てず、ストレスに圧し潰され、精神をおかしくもする。しかし、戦場においては、弱さを見せるわけにはいかない。常に果敢に敵を殺さなければ、自分が死ぬことになる。そこに葛藤が生まれるが、実は葛藤しないことの方が危険なのだ。

一方、強さだけが礼賛され、弱さは否定されるような価値観・世界観がはびこっていたとしたら、どうだろう。
人はそのような文化の中で育ち、そのような教育を受けたとしたら、「強さは善であり、弱さは悪である」と思い込むだろう。自分の中に弱さがあるなどということを他人に知られたら、自分の立場がまずいことになる。そこで人は、自分の中の弱さを心理的に抑圧する。抑圧とは、「あるのに、ないことにする」ということである。

自分の中の弱さを抑圧している人は、外面的には「強い自分」を演じ続ける。
つまり、「強い自分」という「仮面」を被るのだ。自分に厳しく、他人にやさしく、自分よりも立場の弱い相手に対しては、常に目をかけ、自分が正しいと信じる方向へ導こうとする。相手が望むと望まないとにかかわらずだ。
つまり仮面とは、「対外的にそのように振る舞っていれば都合がいい自分」ということだ。それも確かに自分なのだが、部分的な自分にすぎない。
こういう人は、強い自分だけが本来の自分であると思い込み、弱い自分を認めていないので、葛藤しない。しかし、葛藤しないからといって、弱い自分が消えるわけではない。無意識の深い部分に圧し込めてはいるが、消えてはいないのだ。

こういう人間の前に、ある日、一見頼りなく、弱々しそうに見える後輩が現れたとする。
こういう先輩は、そんな後輩のおどおどした態度が気になって仕方がない。自分が目をかけ、指導して、強く逞しい人間にしなければならないと思い込むのだ。
しかし、その「思い」とは、自分の中の深い部分に抑圧された影を相手の姿に見出しているにすぎない。つまり、自分の弱さを相手の勝手なイメージに映し出しているのだ。これが心理学で言う「影の投影」というメカニズムであり、仮面(ペルソナ)と影(シャドー)の関係性である。
仮面と影とは、地球でいえば、太陽が当たっている昼の部分と、その反対側の夜の部分ということだ。昼であろうが夜であろうが、地球であることに変わりはない。

自分の中に、自分の一部として認められていない「影」の部分があるなら、やがてそれは外側から強迫的に自分にもたらされる(場合によっては、襲いかかってくる)ものとして認識される。
「影の投影」とは、いわば「偽装された葛藤」である。つまり「葛藤しているのに、していないフリをする」ということだ。自分が何と何の間で葛藤しているのか自覚できているなら、投影は起きない。自分の外側で起きていることが、自分の内側で起きていることの反映であると自覚できているからだ。
そうでないなら、本来自分の一部であるにもかかわらず、自分の外に出てしまった「影」が気になって仕方がなくなる。

加害教員が、被害教員のことを、生徒よりも気になって仕方がない存在として、何かとちょっかいを出したくなる心理の裏には、こういうメカニズムが働いていると推察できる。

■いじめの加害者には罪悪感がない?

もし、自分が目をかけ、指導し、強い人間へと導こうと思って、何かと面倒を看ている相手が、強くなるどころか、ますます怯え、弱々しい態度を取ったとしたら、「思い」はエスカレートする。最初は、いかにも面倒看のいい先輩を装っていたとしても、相手が自分の思いに応えないと見るや、とたんに強引で強迫的で暴力的な態度へと豹変するだろう。自分一人では不十分だと感じれば、自分の言うことをきく周りの人間を焚きつけて、「共同戦線」を張ろうとする。
こうして、いじめのピラミッド構造が形成される。

いじめ構造のトップに君臨する女性教員は、配下の男性教員が被害教員を羽交い絞めにし、むりやりカレーを食べさせたり、カレーを目に塗りたくったりする様子を見ながら、心の中では「これはいじめでも暴力でありません。すべてはあなたのためにしていることです。どうか強くなってください」と念じていたかもしれない。
本人は正しいことをしているつもりだから、「お前のやっていることは悪だ、犯罪行為だ」と言われると、本人は「なぜ?」となる。「だって、自分はそのように教えられてきたし、正しいと教えられてきたことを、ただ実践してきただけなのに・・・」となるのだ。

こうした事情が、この女性教員の「自分の行動が間違っていることに気付かず、彼が苦しんでいる姿を見ることは、かわいがってきただけに本当につらいです。どうなっているのかと、ずっと思っています」というコメントに端的に表れている。

今回は、「強さと弱さ」という対立概念を例に出して心理構造を分析したが、この「強さと弱さ」を「博愛主義と自己中心主義」に置き換えることもできるし、「アメとムチ」「弱肉強食と共存共栄」「理想と現実」「エコノミーとエコロジー」「神と悪魔」など、どのような対立概念に置き換えようが、「仮面と影」「影の投影」というメカニズムは成り立つ。

■「影の投影」への対処

では、自分の心の中で対立する二つの概念を、どのように扱えばいいのか。
一般に、自分の中で「A対B」という対立概念が共存していて、それが葛藤を引き起こしている場合、その葛藤を解消するには「AでもありBでもある状態」あるいは「AでもBでもない状態」に到達する必要がある。
この女性教員の例で言えば、彼女がもし自分の中の弱さも認めていて、強さと同時にその弱さに対しても心の中の居場所をきちんと与えられていたなら、「自分の中には強さと弱さの両方がある。どちらも等分に自分だ。ただ自分はあまり弱さを他人に見せたくないだけだ。この後輩教員の中にも強さと弱さの両方があるに違いない。ただ彼は、自分の弱さをあまり隠し立てしない性格なのだろう。自分にはできないことを、彼は自然にできているという意味では、彼の方が人間的に強いのかもしれない」というように思えるのではないだろうか。そう思えるなら、後輩教員に不要なちょっかいを出そうとは思わないだろうし、その存在に敬意を払えるかもしれない。

余談だが、あなたが世の中に対して強烈な怒りを抱いていたとしよう。
あなたは、世の中にはびこる「悪徳」が許せない。その悪徳に猛烈に反発し、できれば激しく攻撃し、その悪徳を叩き潰したいとさえ思っているとする。「目に物見せてやる!」といった具合だ。
もちろん世の中に悪徳をはびこらせてはならない。
しかし、もしあなたが「自分の中には善も悪も両方存在する」と思えるなら、悪徳への激しい攻撃とは、自分の半分を攻撃していることに他ならない。
では、あなたはどのような態度を取ればいいのか。
「世の中に悪をはびこらせてはいけない。とはいうものの、自分の中にも確かに悪い考えが浮かぶことがある。だから、世の中の人間が悪いことを考えたとしても責められない。ただ、悪い考えを実践する人間と、考えだけにとどめておく人間とがいるだけだ」と思ったとしたら、どうだろう。
世の中には、「皮肉屋」と呼ばれる人がいる。その人は、他人に対しても世の中に対しても、ありとあらゆることに皮肉なことを言う。場合によっては、自分自身に対してさえ皮肉なことを言ったりする。皮肉は、失笑を誘ったり、ほんのちょっと人を傷つけるかもしれないが、それほど大きな害はもたらさない。皮肉屋に対して、人はあまり目くじらを立てない。「あの人は、根っからの皮肉屋だから」と思えば、何とか許せる範囲内かもしれない。
実は「皮肉」とは、葛藤の末に「無害化した怒り」なのだ。
だから、皮肉屋に出会ったら、「この人は心に激しい怒りを抱えていて、それを何とか自分の中で消化しようとする涙ぐましい努力の結果、皮肉屋になったのだ」と思えばいい。

一般的な価値観で言えば、心の中に葛藤を抱えているということは、精神衛生上よくないとされているだろう。もちろん葛藤を抱えたままでいることは、精神が不安定なままで、物事に動揺しやすくなり、人にも振り回されやすくなるだろう。
しかしもしあなたが、ありとあらゆる葛藤を経験し、それを乗り越えてきたとするなら、あなたはこの世のありとあらゆる人間の心理に対して、共感をもって向き合えるはずだ。
これはある種の「悟り」である。

■サイコパスには葛藤がない

「悟り」とはまったく逆の状態を想像してみていただきたい。
つまり、対立する二つの概念のうちの一方にしか理解を示さない状態ということだ。こういう人間には葛藤がない。
「そんな人間がいるのか」と思うかもしれないが、いるのだ。

いわゆる「サイコパス」と呼ばれる人格障害者は、葛藤を抱かない。
一般に、サイコパスは他者への思いやりに欠け、自己中心的で、道徳観・倫理観がなく、恐怖を感じない、と言われている。
こういう観念がないから、不道徳で人を恐怖に陥れることも平気でやってしまう。本人は、自分に恐怖心がないので、他人の恐怖が理解できないのだ。

サイコパスは一般に、表面的には言葉巧みで、対人的な立ち回りに長けている。しかし利己的・自己中心的で、自分の振る舞いによって他人がどうなろうが一切お構いなし。自信家で、年中自分の自慢話をし、失敗しても自分の非を認めたがらない。道徳観・倫理観がないため、平然と嘘をつき、他人を自分の意のままに操ろうとし、自分が望む結果を手に入れるためなら、平気で悪事にも手を染める。恐怖心に欠けるため、常に刺激を求め、リスクを厭わず、反省しない。刺激的でリスキーであればあるほど、気分は高揚する。
だから、サイコパスの中には、社会的な成功者も多いという。
サイコパスは、人口の数パーセント程度いると言われている。私たちはこの現実を認識しておく必要がある。

断定はできないが、この女性教師もサイコパスである可能性を排除できない。
だとしたら、「影の投影」もへったくれもない。もちろんそんな人間を教育の現場に置いておくわけにはいかない。


posted by AK at 15:17| Comment(2) | 論考

2019年10月16日

人はなぜ人をいじめるのか?

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子どもが同級生をいじめる、あるいは教師が生徒をいじめる、という事態が後を絶たないと思ったら、今度は先輩教師が後輩教師をいじめる、という事態まで発生してしまった。末期的だ。
どれだけ先進国に住んでいようが、どれだけ文明国家の住人であろうが、人の心の中には相変わらず「野蛮さ」が巣食っている。

人はなぜ人をいじめるのだろう。
いじめ、虐待、ハラスメントと呼ばれる行為に共通しているのは、自分より立場の弱い人間を、自分の欲求や権力の道具として扱い、意のままに操ろうとする心理だ。
これが、組織を舞台に構造的に行われた場合、事態は深刻さを増す。つまり、弱い者いじめをする加害者あるいは権力者をトップとするピラミッド構造が形成されるのである。たいていの場合、この構造は目に見えない。中には、本当にこの構造が見えなくて、後で発覚して愕然とする者もいるようだ。
大方の構成員は、自己保身のため「見て見ぬフリ」をするか、あるいは程度の差こそあれ、事態に加担する。程度の差は、ピラミッドのトップとの距離感を表す。

こういう組織、こういう社会は継続可能だろうか。
実は、いじめ、虐待、ハラスメントの問題は、心理学的であると同時に、高度な組織論・国家論でもある。

■あなたの内面が国家のあり方を反映する

「他人の立場に立って、ものを考えろ」とよく言うが、真の意味で他人の立場に立てるのは、自分の立場をしっかり構築している人間だけである。ここで言う「立場」とは、肩書だの役職だのという社会的立場とは一切関係ない。つまり、目に見えないピラミッドに振り回されないだけのしっかりした「自己確立」ということだ。
人は誰しも自分の「内なる王国」の住人である。自分の「内なる王国」の統治者にしかなり得ない。いかなる人間も、他人の「内なる王国」を統治することはできない。
もしあなた自身が、自分の「内なる王国」をうまく統治できていないなら、あなたは得体の知れない不安や恐怖に常にさいなまれることになる。そうなればなるほど、あなたは他人の存在を脅威に感じ始める。自分が他人の存在に脅かされるかもしれないと思うのだ。

現実の国家にも同じことが言える。国の中が乱れていればいるほど、その国は他国を脅威に感じる。他国が脅威なら、武力を強化するしかないと考える。いったん武力を強化し始めると、際限のない武力競争が始まる。武力にエネルギーが取られれば取られるほど、国内はますます疲弊する。
国内の乱れを何とかしたいがあまり、その国はついに鎖国に至るかもしれない。鎖国すればそれだけ外圧の脅威が増す。
逆に、国内が健全に統治されている国家は、他国と健全な国交を結べるはずだ。他国とウィン−ウィンの関係が結べれば、戦争の脅威は減る。

このメカニズムについて、もう少し詳しく見てみよう。

■内なる王国を統治するということ

あなたが、あなた自身の「内なる王国」を統治できていないという事情は、あなた自身を疲弊させ、蝕み、他者への脅威を煽る。
内なる王国の自己統治とは何だろう?
あなたの内なる王国には、勝手なことを言う様々な人格(国民)が住んでいる。それらの人格は、たとえば「私にはお金が足りない。もっとお金が必要だ」と言ったかと思うと、「お金なんて、大して重要ではない」と言ったりする。「何でも好きなことを好きなだけやることこそが幸せだ」と言ったかと思うと、「社会に何かしらの貢献をしない限り、意味のある人生とは言えない」と言ったりする。「私がこんな状態なのは、あいつのせいなのだ」と言ったかと思うと、「人は人、我は我なり」と言ったりする。
これら矛盾するバラバラな「国民の声」を統治するのは、あなた自身しかいない。様々な声に、あなた自身が振り回され、搔き乱されているだけなら、あなたの「内なる王国」は方針が定まらず、不安定なままである。
どの声も無視することはできない。あらゆる声を平等に聞いたうえで、あなた自身が自ら「憲法」を定めるしかないのだ。
もし無視したり、充分に聞けていない「声」があるなら、その声はやがて「自分の声」として認識されなくなり、外側からあなた自身を侵略しようとする脅威のように感じられるようになる。あなたは幻想に振り回され始めるのだ。

■いじめの心理構造

たとえば、あなたの内面の声が、あなたにこう言い続けているとする。
「お前には低い学歴しかない」
しかしあなたはその声を黙殺するか、きちんと言い分を聞いてやれていないとする。
すると、とたんにその声は、自分の外側から「他人の声」として聞こえ始める。
その「幻の声」に対して自己防衛するため、あなたは、表面上は学歴などにはいっさいこだわらないオープンで公平な人間を装ったりする。しかしそれは偽装だ。
そんなあなたの目の前に、ある日、高学歴の部下が現れたとする。
すると、あなたの耳に、その部下がこんなふうに言っているように聞こえてくる。
「お前は上司のくせに、大した学歴もない。お前はオレより格下だ」
もちろんその部下は、実際にはそんなこと一言も言ってはいない。しかし、あなたには言っているように聞こえるのだ。
そこであなたは、その声を黙らせ、自分の立場を守るため、その部下に対してある種の防御線を張り始める。虚勢を張ったり、相手を蔑んだり、必要以上に自分の力を見せつけたり、あるいは相手のミスに対して過剰な罰を与えたりし始めるのだ。
それがやがていじめや嫌がらせに発展しても、何ら不思議ではない。

あなたがもし「お前には低い学歴しかない」という心の声にしっかり耳を傾けていたとするなら、「部下をいじめている暇があるなら、もっと自分を磨こう」となるはずなのだ。あなたが、自分磨きに余念がなく、自分を日々高めているという実感を持てるなら、あなたは学歴コンプレックスとは無縁のはずだ。それこそが「内なる王国」の統治である。

あなたがいじめようとする対象は、端的にあなたの心の「死角」を表している。
あなたは、見えていない自分自身の影に怯え、それを脅威とみなし、それに攻撃を仕掛け、屈服させようとしているのに他ならない。
それはあなた自身の影にすぎないから、目の前の誰かを攻撃し、屈服させたとしても、その影が消えるわけではない。攻撃の対象はまた必ず現れる。と言うよりも、あなた自身が次なる生贄を必死に探し求めることになるのだ。それが自分の影であることを認めたくないからだ。自分を正当化するためには、「仮想敵」が必要なのだ。
つまりあなたは、自分で自分をつねっておいて、「痛いじゃないか! 誰だ、私をつねるのは?」と言っているのである。

自分の影(心の死角)からのこうした影響から抜けるには、それが自分の一部であることを認め、それに居場所を与えるしかない。つまり、影に光を当てるのだ。人は、見えている「穴」には落ちない、たとえ「穴」が消えなかったとしてもだ。
自分の内なる王国を統治できている人間とは、自分の影に光を当て、それも自分の王国の大切な国民であると認めている人間のことである。
こういう人は、自分の幻影に怯えることもないし、犯人探しもしないし、他人を傷つけようとも思わない。

以上が、いじめ、虐待、ハラスメントに伴うひとつの心的構造論である。

■いじめ心理は上から下へ伝播する

あなたがあなたの内なる王国を健全に統治できているなら、あなたは他人の王国もきちんと尊重し、二つの国の間に健全な国交を拓くことができるだろう。
そのとき初めて、二人の人間の間に「平和」が樹立される。
世界平和は、二人の人間の健全な国交からしか生まれない。
当然のことながら、自分の内なる王国を統治できていない人間が国(組織)のトップになってしまったら、その国(組織)に平和は訪れない。

一般に、自分より立場の弱い者をいじめたいという欲求は、自分より上の立場の人間からの圧力や統制に対するストレスからも発生するようだ。
つまり、いじめ欲求は、上から下へと伝播しやすい、ということが言える。
上の立場の人間から受けた扱いに対して無批判でいればいるほど、下の立場の人間に対し、まったく無自覚に同じやり方を踏襲してしまう、ということだ。そこに、自分の影との闘争という個人的事情が加われば、事態はエスカレートする。つまり、上から引き継いだ以上のことを下に対してやってしまう。
ピラミッド構造の組織の中で、こうした事態が起きている場合、下の人間は、直接の上司の背後にいる「ひとつ上の階層」に「元凶」を見出すことも可能だが、この「ひとつ上の階層」が、「かつては存在したが、今は存在しない」という場合さえある。
たとえば、親から子へ(あるいは先生から生徒へ)の伝播がこれにあたる。親から受けた扱いは、自分が人の子の親になって初めて踏襲される、ということが起こってくる。そこには一世代分(およそ30年)の潜伏期間があることになる。これは組織よりもやっかいだ。

しかし、ここで重要なのは、どれだけ上から統制やストレスを受けようが、すべての人が弱い者いじめに走るわけではない、という事実だ。トラウマ体験を持つ人間がすべて犯罪者になるわけではないのと同じだ。
やはりその人個人の心的傾向が大きく関与するわけだが、ここでもうひとつ注意しなければならないのは、かつても今も、ストレスもトラウマもいっさい受けていないにもかかわらず、いじめ、虐待、ハラスメント、あるいはもっと凶悪な犯罪行為に走る人間もいる、という事実だ。ここには、生まれついての人格(あるいは魂)の問題が絡んでいる。
上からの踏襲なのか、それとも生まれ持った気質が原因なのかは、個別に判断するしかない。この判断によって、その人間への対処は変わってくる。

ここまでくると、「人を悪の道から更生させることは可能か」というテーマに片足を突っ込むことになるので、それについては稿を改めよう。

■いじめの心的構造論から組織論へ

最後に、いじめの心的構造論から、もう少し組織論に踏み込んでおこう。
実は、大きな組織の中で派閥争いが起きる背景にも、似たような心的構造が働いている。
派閥争いとは、ひとつの組織の中に、目に見えないピラミッドが複数存在する、といういびつな構造を表す。
そもそも、なぜ人は他人を服従させ、自分の領土を広げたがるのか。そのやり方は、自分にも周りにも真の平安をもたらすだろうか。

ここでひとつのモデルを示してみよう。
ある人間が、親や教師から「この世は、弱肉強食だ。競争に勝ち抜かなければ生き残れない。組織に入るなら、トップを取らなければ意味がない」というような、ある種の帝王学、エリート教育を受けてきて、そうした価値観・世界観を鵜呑みにしているとする。
こういう人間が組織に入れば、当然常にトップを目指し、なるべく多くの人間を自分の配下につけようとし、自分の陣地取りに余念がない、という態度になるだろう。それがある程度成功すれば、自分の権力に酔いしれ、権力を濫用し始め、部下を自分の性的な「オモチャ」にしても許されるのだ、という勘違いをしたとしても不思議ではない。

■ひとつの文明が滅亡するメカニズム

私は、小説「コズミック・スピリット」の中で、インカ帝国滅亡の例を示した。
インカ文明といえばミイラで有名だが、インカの歴代皇帝たちは全員ミイラにされることで、死後も自分の領地を保持し、臣下の者たちにかしずかれ、着替えや食事までされて、晴れた日には輿(こし)に乗せられ、市中を練り歩いていたという。
歴代の皇帝が、ミイラというかたちで、いわば 「永遠の命」を与えられ、死んでもなお領地と財産を持ち、臣下の者が特権を与えられて、それらを恒久的に管理していたのだ。
このように、死んだ歴代皇帝が幅を利かせ、その従者たちが変わらない権力を保持していることで、現役皇帝は隅に追いやられ、自分の権力と財産を得るために領土拡張のための遠征を余儀なくされることになった。インカの覇権主義はこのようにして生まれたのである。
こうした事情から、事実上インカの最後の皇帝となった十二代目は、ミイラ皇帝とその従者たちの領地や財産を没収しようと企て、歴代のミイラ皇帝たちを葬り去ろうとし、それが内乱へと発展した。その混乱の最中にスペインが侵攻してきて、帝国は滅亡したのである。
つまりインカ帝国は、ミイラ信仰によって国家の威信を保持しようとした挙句、現役皇帝の征服欲を煽る結果となり、そのために短期間のうちに大帝国になったが、その征服欲が極限に達したとき、帝国は自滅したとも言える。

■国家の存亡を握るカギは「道具化」からの卒業

もし、ある企業の中枢を担うトップ集団が、派閥争いに明け暮れているなら、ライバル企業にとって、これほど都合がいい事態はない。内紛が激化すればするほど、その組織は勝手に弱体化するため、ライバル企業がそれに乗じて一挙にシェアを奪う、ということも起こってくる。インカ帝国が、内紛に乗じたスペインに一気に攻め込まれて滅亡したのと同じだ。
競争相手とは、本来組織の外に存在するのであって、団結すべき組織内部に競争相手を作ってしまうような体質は、一部のトップが自分の征服欲のために構成員を「道具化」するのを煽り、組織を弱体化させるだけである。こういう組織構造は、競争原理にすら合致していない。
現代文明は、インカの時代からほとんど進化していないのだ。

国の中枢を担う政治家が、国内に激甚災害が起きたにもかかわらず、その被害が想定よりも下回っていたとみなし、うかつにも「そこそこに収まった」などと口を滑らせてしまうのは、国民を統計的数値でしか見ていないことを表す。この政治家は、自分の家族が被害に遭って死んだとしても、同じことが言えるのだろうか。もし言えるなら、自分の家族さえも統計的数値としてしか捉えていないことになる。その言葉尻からは、「思いのほか歳費が少なくて済んだ」という胸算用が透けて見えるだけである。
命の数値化も、人間の「道具化」の一種だ。それは、どこかしらミイラ皇帝とその従者たちに権力を与える構造に似ている。つまり、ミイラ文化が、覇権主義の構造的な維持のための道具だったように、人間の道具化も権力維持のための要件なのだ。
このような政治家が権力の中枢にいる限り、その国は衰退の一途をたどるだろう。
それを食い止めたいのなら、国民一人一人が「道具化」から卒業する以外にはない。


posted by AK at 15:08| Comment(3) | 論考
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